主日の典礼 2022年
8月7日 年間第19主日
ルカ12章32~48節
腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。(35~36節)
日常生活では、様々なことが降りかかってきます。突然事故や事件が起こったり、誰かが病気になったり、急にお金のいることが出てきたり、等々、自分だけでは解決できないことがたくさんあります。でも準備して、覚悟を決めているとそれぞれの対応が違います。
むかし「油断大敵」という時代小説を読みました。今の若い人は読んだことがあるかどうか知りませんが、山本周五郎の短編です。剣の道に精進する若者たちのはなしですが、日常生活の小さなことをおろそかにすることがないように、と生き方を教えられるお話でした。
もちろん、小さなことをきちんとすることはとても大変なことです。些細なことであればあるだけ、それを後回しにしてしまいがちです。けれど、その後回しにしたことも、たくさんたまれば大きくなり、問題が山積みになってしまいます。
イエスの時代は、今とくらべて、ずっと単純だったかもしれません。コンピューターも、携帯電話もなく、どこに行くにも自分の足が頼りの時代です。人と人とのつながりも、同じ村の人、小さなコミュニティで完結していたでしょう。現代社会に生きるわたしたちは、そうはいかず、多くの事柄に惑わされ、翻弄され続けています。
確かに、様々な情報が入るようになった現代、世界中のことを部屋の中に居ながら知ることのできる今の時代は「豊か」なのだと思います。同時に、それに伴って、何を選択し、どう生きるか、どう選んでゆくかを決めるのはとても困難です。また、世界中のことが映像を通してみることもできるため、遠い国の戦争すら、他人ごとではなくなります。確かに身近でそれを感じ、祈ることも出来るようになりました。
だからこそ、目を覚ますことの大切さが強調されるのです。聖霊に導かれ、御父の示されることばに忠実であるよう、そして、イエスのように、どこにいても互いに人と深くかかわりあってゆくことが望まれるのです。
8月14日 年間第20主日
ルカ12章49~53節
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。(49節)
自分の言動が、何かに駆られて、止めることができないことがあります。怒り、不満、正義感、執着など、多くのものがわたしを縛り、身動きできなくし、そして、わたしのことばと行動をイエスの愛から離れたものにしていきます。人とつながることができない、心を開くことができない、自分の自信の無さを怒りで覆い隠そうとする。そんなことを繰り返し、人を愛することができない自分から目をそらしてしまいます。
イエスの投ずる「炎」とは、そんなわたしの弱さやエゴを焼き尽くしてくれるものであると思いたいのですが、自分の弱さも、自己中心的な思いも、そんなに簡単には消えてくれません。地上を歩むわたしたちに肉体が必要なように、人と人との関わりには、一人ひとりの肉体が必要とされています。その関わりを通して自分の弱さと向き合うことこそが、イエスの愛により頼むことなのだと思います。
弱い人同士が関わり合うと、軋轢やいさかい、憤りや不均衡が起こります。けれど、地上にあるわたしたちは、それを乗り越えるイエスの大きな愛といつくしみ、御父のあわれみの心を知ることができるのです。
8月21日 年間第21主日
ルカ13章22~30節
そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。(30節)
後先というのは順番のことでしょうか。先日読んだ本に「一番になれなくてもいい」とありました。一番になることは、確かに素晴らしいことだけれども、いちばんの人の上に、さらにそのいちばんがあり、そしてまた…。つまり、いちばんになるのは限りがないことですよ、と言っているようでした。
確かにそうです。ある人は、営業成績で一番になったとしても、他の会社で他の人も一番になるでしょう。それらの一番を競い合ったとしても、勝負はつかず、空しいだけです。皆狭い世界の中で、自分の一番を誇るしかないからです。
けれど、今日イエスの言う「後の人」「先の人」というのは、単に一番になるというのとは違います。イエスは、ここで「戸口の中に入る」ことができるかどうかを話しておられます。そこの家のドアが占められてしまったあとでは、どんなに入ろうとしても入れない、というのです。外でいろいろ文句や泣き言を言っても、「お前たちがどこのものか知らない」と冷たく突き放されてしまうのです。
そうなってからでは遅いですよ、準備しなさい、と先週の福音にあるように言われるのですが、ついつい、準備も、心構えもおろそかにしてしまうのがわたしたちです。
だからこそ、何が一番であるのか、自分の中できちんと整理をしておかなければならないのです。
先週も準備、今週も整理、耳が痛いことこの上ありません。今生きているこの現実を、きちんとしておくこと、それは、本当に大切なものを見極め歩んでゆくことなのです。「お前たちがどこのものか知らない」と言われてしまうのは、「ご主人様」の大切な本当の気持ちを最も優先させていなかったことなのですから、言われても当たり前なのです。
8月28日 年間第22主日
ルカ14章1、7~14節
「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。」(10節)
自分の立ち位置を知る、ということがここには描かれているのでしょうか。わたしには、この福音のたとえが、日本人お得意の謙遜しつつ、持ち上げられるのを待っている姿勢、のような気がします。よくあることですが、「つまらないものですが」と言って差し出す贈り物は、実は全然つまらないものではなかったりします。
先日「霊性センターせせらぎ」のホームページで見つけたのは、一休禅師の逸話でした。たくさんの寄付をして、喜ばれ、お礼を言われると思っていたお金持ちは、一休さんがお礼を言わないので不服でした。それを訴えると、「あなたが善を施して、功徳を積んだのに、なぜわたしがお礼を言う必要があるのか」というものでした。わたしたちがよい行いをするのは、実はここにその落とし穴があります。
善い行いは、人のためにするものであるはずなのに、自分のために行ってしまうことが多々あります。「こんなに苦労して尽くしたのに、ちっとも報われなかった」「こんなにしたのだから、少しくらい感謝してもいいのに」「たくさんの見返りは求めないけれど、少しは態度に表してほしい」とか何とか。わたしの心には「何かをしてあげた」人に対する不満や要求がわきおこっています。イエスのたとえは、そんな人のことを考えておられるのでしょうか。いえいえ、そんな単純なものではないはずです。
本当に一生賢明自分の仕事を果たす人は、お礼のことや、報いや報酬のことを考えることもなく、必死で働き奉仕しているのです。つまり、報いを考えている、ということは、まだまだ自分のすべてをなげうってはいない、ということなのです。自分の意識の内で、(後で上席に案内されると思うから、下座に座っていよう)と考えて座席を選ぶなら、それは、まったく謙遜になっていないでしょう。これがさっき述べた自分で掘る落とし穴、いくら良い行いをしても、ちっとも功徳にならず、かえって悪いことになってしまう、ということではないでしょうか。
イエスは多くの人の行いを見て、歯がゆく思われたのだと思います。自分を無にして奉仕できるのに、それを無駄にしてしまう自意識のことを悲しく思われたことでしょう。わたしはどうなのでしょうか。人からの賞賛や感謝を受けることを当たり前、と思っているのではないでしょうか。