主日の典礼 2022年

6月5日 聖霊降臨の主日   
ヨハネ14章15~16、
23b~26節(C年)

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。(15節)

聖霊降臨の祭日は、修道院では毎年「聖霊のたまもの」のカードをいただきます。そこには聖霊の7つの賜物の中から一つが書いてあり、何をもらうのかお楽しみ。ある人は「知識」を、ある人は「聡明」を、「剛毅」などなど、7つの賜物のどれをもらっても、それをもらってよかったね、ではなく、それが足りないのだ、と指摘されたように感じてしまいます。本当は、それぞれに必要なたまものを聖霊が直接下さっているのですが、わたしたちはついつい自分に足りない物のことを考えてしまうのです。

勉強ができないから、語学に苦労するから、忍耐がないから、おしゃべりだから、人前に出たくないから、等々。わたしたちの中には、自分がこうであったらいいな、と思うことが充満しています。でも、実のところ、そんなに理想どうりにはならないのです。

人前に出ることが大嫌いな人に限って、その機会が降ってわいたり、話すことが苦手な人ははなすことをもとめられたり、往々にしてわたしたちは苦手なことをしなければならなくなります。その時々に、聖霊の賜物が豊かに働き、人に褒められ、受け入れられ、自尊心が満足するようになれば、なんとも良い気分を味わえます。ところが、そうはならないのです。多くの場合、苦手なことは苦手なままで、それを指摘されたり暴露されたりして、自尊心は粉々になれ、もうどうでもよくなって、ふてくされるのです……。いけない事だ、とわかっても、自分のプライドは残って、不服と、不満と、それを味わわせた人に対して文句が積み重なります。みじめなわたしではなく、みじめにさせられたわたしに、周りの人びとに責任をかぶせます。

どうか、聖霊の働きを本当に知ることができ、自分の可能性を本当に信じて見極めることができますように。出来ないことはできないこと、これが自分なのだと、受け入れることができれば、心は安らかになるのでしょうが、そうできないところが苦しいのです。その苦しさを聖霊がいやしてくださいますように。


Go to Top


6月12日 三位一体の主日  
ヨハネ16章12~15節


その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。(13節)

「三位一体」ということばは、キリスト教から出てきたのだとは思いますが、政治や文学の中でも時々使われます。三つのものが一つになって、一致協力する、というのが、一般的な理解でしょうか。けれど人間の社会では三つのものが完全に一つになることはできません。

例えば、小麦粉と砂糖と卵を使ってケーキを焼くことができます。出来上がったケーキはもう小麦粉でもなければ、卵でも砂糖でもありません。全く別のものです。

けれど御父と御子と聖霊は、混じることなく、それぞれが完全に独立していながら、その本質において唯一である、と宣言されるものです。人間では理解できないことですが、古来、多くの神学者たちが、その真理を理解しようと考え続けてきました。とはいえ、人間の知性では理解できないことには違いなく、どのようなたとえ(太陽‐光線‐輝き、泉‐川‐流れ、根‐木‐果実、等)を用いても不完全なものです。けれど信仰によって、わたしたちは御父、御子、聖霊の働きと愛を信じることができるのです。

むつかしい話はさておき、わたしたちはこの三位一体の神、愛の交わりとほとばしりである神、常にわたしたちのそばにいてくださる神を知ることができたのです。多くの人が一人で寂しいと訴えるこの世界で、愛のコミュニケーションを絶えず繰り返されている三位一体の神に、わたしたちも心を向け、信頼し、ともに歩んでいきたいと思います。


Go to Top


6月19日 キリストの聖体 
ルカ9章11b~17節 


すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。(17節)

キリストの聖体の祭日は、パンの奇跡、大勢の人が満腹したことが読まれています。昔も今も、十分に食べるということが、大きな課題であったと思います。現在の日本社会の中にも、貧困によってきちんと食事ができない人がいます。わたし自身は、修道院の豊かな食卓で満たされ、十分に頂いています。このように満たされた環境の中で、せめて、頂いたもの、食卓に上るものを無駄にすることのないように、そして、不必要なものを買わないように、と考えます。

 世界中で、また日本で、十分に食べられない人々、特に子供たちが存在することを忘れないようにします。とはいえ、わたしたちは、いろいろな人の努力で、毎日の食事をきちんといただいています。農産物や海産物、肉や乳製品に卵。ちょっと考えるだけでも自分では作り出せない物ばかりです。神様は、多くの人を通して私たちを満たしてくださっています。

そのことを考えると、いのちの糧としての御聖体は、日々の食事につながるものではないかと思うのです。毎日の食事を大切にすることが、御聖体を大切にし、そしてその命をいただく一人ひとりを大切にすることになるのではないでしょうか。

コロナ過で、免疫力を上げることを言われていましたが、日々の食事をきちんととることが、ひとりひとりの免疫力を上げることにもなるのだと思います。日々の食事は生きること、そして、御聖体につながることを自覚して、毎日を大切に生きてゆきたいと思います。


Go to Top


6月26日 年間第13主日  
ルカ9章51~62節   


一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(57~58節)

イエスの宣教の旅路で、いろいろな人がイエスについてゆきたいと表明します。それは純粋な動機からの人もいたでしょうし、何か下心をもってついてゆきたいと思った人もいたかもしれません。それぞれの思惑から、イエスについてゆきたいと望んだ人たちであっても、その厳しい宣教の旅路では、落後した人もいたことでしょう。わたしたちの信仰の歩みも同じではないでしょうか。

わたしたち一人ひとりも、様々なきっかけでイエスについて行こうと思いました。先を歩む先輩の信仰を見て、父母の信仰の模範に倣って、あるいは、神父様やシスターたちの証を通して、それぞれが信仰に導かれました。そしてわたしたちもそれぞれが後からくる方々の信仰のために、証となっていることでしょう。弱くて貧しいわたしですが、そんなわたしをも神様はお使いになるのだと思います。とはいえ、それとは別に、つまずきとなっていることもあるかと思います。

残念なことですが、わたしの体験からも言えることです。わたし自身の言動によって、他の人がイエス様や教会を誤解してしまったことがあるのです。そうではないのに、教会や神様や、イエス様が、狭量で融通の利かない、わたしの信仰によって誤解されたことが多々あります。本当に悔やんでしまいますが、そんな人たちが、本当の神様のやさしさと愛に触れることができたら、と祈るよりほかありません。本当に、気が付かないところで、多くの人につまずきを与えていると思うのですが、こういうことをも乗り越えるよりほかはないのかもしれません。自分が思っているよりもずっと弱くて、狭い心をもっていることを自覚すべきなのでしょう。まだまだ、困難な道が続きます。それでも、必ずイエスが一緒にいてくださることだけが頼りです。わたしにはできないことを、イエスが実現してくださることを信じることができますように。



Go to Top


Go to Top