主日の典礼 2022年

9月4日 年間第23主日   
ルカ14章25~33節

被造物を大切にする世界祈願日

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。(27節)

様々な十字架がありますが、自分の十字架ほど、重くて大きいものはない、と考えてはいないでしょうか。ネット上に、面白いマンガがありました。沢山の人が十字架を担いで歩いていましたが、その中の一人は、その大きな十字架が嫌で、端を切り、軽くして、それを担いで歩いてゆきました。ところが、深い淵があり、ほかの人たちは、大きな十字架を橋にしてわたることができたのですが、十字架を軽くした人は、丈が足りず、渡ることができませんでした。

 とはいえ、重い十字架は、時に投げ出したくなるものではあります。

本当に重くて重大な十字架を背負っている人は、それを見せつけることはしない、と思います。きっと私たちが十字架が重い、などと文句を言うのは、まだ文句を言う余裕があるからではないでしょうか。本当の押しつぶされそうなとき、人は口を開くことも出来ず、黙って耐え続け、つぶれてしまうこともあると聞きます。「我慢」「忍耐」「お捧げ」などという美しい言葉で耐えるようにと強いられた時代は、実にそんなに昔のことではありません。家庭で、職場で、学校で、様々な苦しみを強いられている人々に「自分の十字架を背負ってゆくのが功徳になります」などと時代錯誤なことばを教会は言うわけにはいきません。社会正義は常に弱い人の立場にたって、主張されるものです。

では、イエスのこのことばは時代遅れの産物なのでしょうか。決してそうではありません。イエスは自らも進んで十字架を背負われました。しかも、それは自分の罪のために背負うものではなく、わたしたちのために背負われたものだったのです。わたしたちは、このイエスのあとについてゆく者ですから、イエスと同じように、「せめて」自分の十字架を自ら進んで背負うようにと望まれているのです。

様々な苦しみはありますが、社会的に弱い人々(障がいのある人、難民、外国人労働者、女性やシングルマザー、様々な犯罪の被害者や加害者)の受ける差別や偏見、社会的な格差は常に正されるべきものです。けれど、わたしたちが弱さによって自分が負う「弱さという十字架」「自分の罪という十字架」は常に自分で背負ってゆかなければならないのです。けれど安心してください。わたしたちが背負う十字架の重さの大半を背負ってくださるのは、イエスご自身なのですから。


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9月11日 年間第24主日  
ルカ15章1~32節


『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』(21節)

「あわれみの三つのたとえ」が語られます。放蕩息子のたとえは、よく読まれ、なじみ深いものですが、その前のいなくなった羊と失くした銀貨のたとえも、とても分かりやすいものだと思います。

修道院の事務所で、何か見当たらなくなれば、あせって、必死で探す羽目になります。自分で置いたところがわからなくなり、どこに行ったのか、探し続けて見つかればやれやれ、時には、とうとう見つからないこともあります。そして、そのためにまたいろいろな手続きをしたり、書類を作り直したりして、汗をかいてしまいます。それも自分がきちんと整理できていなかったからです。誰を責めるわけにもいきませんので、本当に困ります。

とはいえ、動物や物なら、失くしたとしても大体はその代わりがあります。けれど放蕩息子のたとえでは、息子が「死んで」「いなくなった」というのです。親子の関係は、唯一無二のものです。現代の社会で、家庭環境が複雑になったとしても、母親と父親は、子供との関係を深く保っています。幼児虐待事件など、家庭の中の悲劇が起こるといつも思うのですが、子供たちは両親以外の人になかなか助けを訴えることができないのだ、ということです。子供(児童)の最初で最終の援助者は両親なのだなあと思うと、虐待されている事実が分かったとしても助けるのが難しいというジレンマがあるのでしょう。本当に保護されるべき児童が、保護者に虐げられるという事実は、大きな社会問題だと思います。

そのような血のつながりを持った父親と息子がこの物語の主人公ですが、息子の血を吐くような最後の回心のことばは、父親の示す愛の前に霧散してしまいます。父親は、息子の姿が見えるとすぐに、走り寄り、言葉もほとんど聞かずに迎え入れているのです。つまり、罪を悔やんだから、回心したから、ということよりも、自分のもとに戻ってきた、その事実だけで、離れていった息子を受け入れるのです。

 これが神様の愛です。わたしたちがうだうだと罪の重荷に悩んだとしても、御父は先に赦してくださいます。人間的な感情や法律では決して許されない、と考えた者でも、御父は、戻ろうとしているわたしたちを見て、駆け寄ります。この深い愛に信頼することができるのも、恵みなのだと思います。


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9月18日 年間第25主日 
ルカ16章1~13節


ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。(10節)

このことばはわたしにはとても耳が痛いものです。ついつい、小さなこと(部屋の掃除や片付け、書類の整理、手紙、メールの返信等)と思ってしまうことをおろそかにしてしまうからです。

けれど、生きてゆくということは、日常の小さなことの積み重ねです。平凡な日々こそ、小さなガラス玉のように連なり、多くを数えることで、その光が輝きます。大きな宝石もとても重要ですが、小さいガラスをいくつもつなげることもとても難しいことです。小さなことをおろそかにするということは、この日常のガラスの玉をおろそかにし、曇らせたり、かけさせたり、どこかにやってしまったりすることなのではないでしょうか。

だからこそ、小さなことを忠実に、と思っても、自分の中のことにかまけて、なかなか大切にしてゆくことができません。多くの人が仕事に、家庭生活に、日常に忙しく過ごしておられるからこそ、小さなこと、特に日々の祈りのように「小さい」「ささいな」ことと思われることを忠実に果たしてゆきたいと思います。たとえば、毎日福音を読むとか、一日の初めと終わりに、心を神様に向けるとか、様々なことで、日常を聖化できることも多いのです。

わたしたち一人ひとりの歩みが、神様のみ心にかなったものであるために、この一瞬を大切にできますように。

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9月25日 年間第26主日  
ルカ16章19~31節   


世界難民移住移動者の日

お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。(25節)

このたとえ話は、日常を何の気なしに送っているわたしたちへの警告です。たとえ話の中の金持ちは、特に悪いことはしていませんでした。けれど決定的に欠けていたものがありました。それは他の人に対する「関心」です。

心をそちらに向けさえすれば、近くにいる貧しい人、苦しんでいる人のことが目に入ったはずでした。けれど、そこに心が向けられないがゆえに、「もだえ苦しむ」破目になってしまいます。

  教皇フランシスコは、この無関心の罪について、繰り返し語っておられます。わたしたちが自分のことだけ、自分の近くの人だけのことにしか心を開かないなら、それは神の心に反することなのだ、と話されます。

 「わたしが心を向けても何も変わらない」と考えるかもしれません。けれど、どんなことも最初は小さなことからです。最初は小さな、たった一人の行動でも、それがきっかけで大きなうねりを作り出すことも出来るでしょう。小さな一人ひとりの祈りと行動が、神様のいのちを通して示されますように。



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