主日の典礼 2022年

7月3日 年間第14主日   
ルカ10章1~9節

「わたしはあなたがたを遣わす。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」(3節・5節)

「平和」と訳されている言葉は、皆様もご存じの「シャローム」ということばです。これは単に「平和」であることだけではなく、神の恵みに満たされた、完全な状態を表しています。紙が恵みであるいのちを与えられたこと、その命の恵みを完全に行き渡らせる状態のことではないでしょか。平和は単に「戦争がない状態」のことを言うのではありません。人々のいのちと暮らしが守られ、その素晴らしいいのちの輝きが、十分に光り輝く状態のことを言うのではないでしょうか。

ですから、戦争という究極の状況に陥ることはもちろん平和とはまったく相容れない状態ではありますが、戦争が無くても、外国人が差別されたり、人道にもとる処置がとられる状況があります。あるいは、若い人たちが仕事で搾取され、自殺にまで追いつめられる社会、幼い子供のいのちや将来が脅かされていること、高齢者が助けもなく孤独に生涯を終えなければならないことなど、この日本の社会にも、多くの「平和」に反対する状況が広がっているのではないでしょうか。

神様の望まれる平和とは、それぞれのいのちの賜物を、本当に素晴らしく輝かせていくことだと思います。神様は、わたしたちを本当に幸せにすることをお望みです。不幸になってよい人など、誰もいないのです。どんなに「悪い」人でさえ、神様の下では平等に愛されている子供なのです。

わたしたちは、なんとなくそんなことを忘れています。「あの人は良くない」「罪人だから」「掟に背いているから」などなど、簡単に切り捨ててしまいがちです。戦争を起こした当事者たちでさえ、神様はいつくしみの目を注いでおられ、立ち返るのを待ち望んでおられます。

わたしたちは、今祈り続けましょう。本当の平和が訪れるために。わたしたちの小さな捧げこそが、それを導くものであると信じて、「平和があるように」と告げ知らせていきましょう。


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7月10日 年間第15主日  
ルカ10章25~37節


「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(36節)

「隣人とは誰か」と尋ねたファリサイ派の人に対して、イエスは「誰が隣人となったか」と問い返されます。三年前のこの欄にも書いたように、イエスは問いかけられたことに対して、逆転の発想で答えられました。わたしたちにもそれは突き付けられている課題です。

「誰が隣人となったか」という問いは、わたしたちの隣人は誰か、という問いであり、わたしの隣人であるあなたとは誰なのか、ということです。またそれは、わたしのそばにいてくださる方は誰なのか、ということです。

強盗に襲われ、半殺しの目にあって倒れている旅人は、わたしです。誰も助けてくれる人がいなくて、もう駄目だ、と思っているわたしです。その私のそばにいて、助けてくださる方こそイエス自身なのです。ここで、自分は半殺しにもあっていない、大丈夫だと思っている旅人なら、イエスが助けてくれることにも気が付いてはいないでしょう。実のところ、わたしたちの多くは、実は半分死にそうな目にあっているのに、それとは気が付かず、旅を続けようともがいている旅人なのです。

傷から血を流している、殴られて痛い、疲れ切って歩かずにいる、お金も何もかも取られて、人間の尊厳すら奪われてしまっている。それがわたしたちです。でも、そんなにひどい状態なのに、わたしたちはそれにも気が付かず、なんだか変だな、生きにくいなあと思うくらいで、必死で旅を続けようとしています。そんなわたしたちは、実はとてもみじめなものであるということに、まったく気が付いていません。

イエスの助けが必要です。それは、自分が助けられるべき存在であると気が付くことから始まるのではないでしょうか。日本の社会に蔓延する「自己責任」という大きな亡霊に惑わされることなく、人間は弱く貧しく、助けを人用としている存在だ、と気が付くことから始まるのだとおみます。

 いのちをなくしてからでは遅いのです。わたし自身、イエスの助けを素直に求めることができるよう、願い祈っているのです。


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7月17日 年間第16主日 
ルカ10章38~42節 


「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています」(40節)

このことばは、修道院の中でもよくある愚痴です。「あの人はやらないのに、どうしてわたしばかりしなくてはならいのですか」「わたしばっかりに、用事を振らないでください」「あの人は何もしてないから」「わたしはいっぱいしてるから」「これこれの理由で、やらないのです」などなど。わたしたちもまた、マルタのように他の人を見て、言いつけたり、言い訳したり、正当化しようとしたり、なんとかしようとあがきます。

 おそらく、マルタには悪気はなかったのです。ついつい、用事が多くて、気もそぞろになり、自分の計画でいっぱいになってしまうとき、口に出た言葉だったのです。他の人に言わずにイエスに行ったことは、たぶん無意識の内にも、言うべき人は誰なのかがわかっていたからでしょう。イエスにだけ、愚痴を言うことができる、それはわたしたちも見習いたいことです。

他の人のことを「ぐちぐち」いうことは、決して褒められたことではないかもしれませんが、イエスに、御父に、聖霊にぐちってしまうことは「あり」なのではないでしょうか。神様は「そだねー、もっともだねー」などとは言ってはくださらないのですが、黙って聞いてくださいますし、聞いたことを他に告げ口もなさいません。場当たりな慰めなどくださいません。本当にわたしを大切にしてくださる方は、わたしに一番良いものを準備してくださっているはずです。愚痴ができるときにこそ、神様の前で「主よ、なんともお思いになりませんか!!」とはっきり文句を並べることができますように。


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7月24日 年間第17主日  
ルカ11章1~13節   


祖父母と高齢者のための世界祈願日

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(9節)

イエスはこの福音箇所で、祈り続けることの大切さを話しておられます。後半の五節から十三節は三つの段落に分けられ、コンチェントリック(交差配列)になっています。(詳しくは『主日の福音』C年231ページからを参照してください)

五節から八節と十一節から十三節が、八節から九節を中心として向き合っているのです。前半がわたしたちの祈りの態度(しつこく祈り求めること)のことを述べ、後半部分はそれに対する天の御父の心の広さ(必ず聞き届けられる)をのべています。中心にあるのは、三つの動詞「求めなさい」「探しなさい」「たたきなさい」です。これは、開設によると、現在形が用いられ、動作の継続を表しているとのことです。つまり単に「求めなさい」ではなく「求め続けなさい」であり「探し続けなさい」「たたき続けなさい」なのです。(前掲書253ページ参照)

このたゆまず、飽きもせず、しつこく祈り続ける姿勢は、本当に大切にしたいと思うのです。わたしも、「ま、いいか」で終わってしまう祈りになってしまいがちです。けれど、わたしたちは一人で生きているのではないことをよく考えなければなりません。自分の祈りが役に立たないように見えても、もしかしたら、どこかで誰かを助けているかもしれない、と考えることも大切です。そして、わたしも自分ではどうしようもなくても、誰かの祈りで支えていただいているのだと感じるのです。

SNSで小さなマンガがありました。外国のものだったようですが、一本の大きな棒を、三人が支えて持っていました。歩いてゆくと、大きな道の割れ目があり、ひとりでは渡れそうにありません。最初の人が二人の支える棒で向こう側にわたり、二人目も前後の人が支えている間にわたることができ、最後の人も向こうにいる二人が支えているのでわたることができました。祈りで互いに支えあうというのは、こんなことなのだ、とマンガにはありました。お互いに祈りあうこと、それこそ、御父の望まれるゆるぎない祈りの姿勢なのではないでしょうか。



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7月31日 年間第18主日  
ルカ12章13~21節  


しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。(20節)

未来のことがわからない、というのは、人間にとって大きなお恵みではないかと思います。人間は、未来のことがわかると、不安だったり、投げやりになったり、絶望したりするでしょうから。それでもちょっと先のことが分かればいいな、と考えることもあります。いえ、それよりも、過去の恥ずかしい自分をごしごしと消しゴムで消して、きれいにしたいな、と思うことがあります。いずれにしてもかなうことはなく、わたしたちはこの時間の流れの中で、一瞬一瞬を生きるしかありません。

 時間は継続していますから、「今」を捕まえることはできず、すぐに過去になり、未来も次に「現在」になり過去になります。時間を捕まえようとしても空しく、できることは過去を振り返って後悔するか、まだ来ぬ未来にはかなく希望するか、なのです。

けれど、イエスは人間として生きてきたときも、「今」を真剣に生きておられたことでしょう。わたしたちは「明日(来週、来月、あるいは来年)にこれをする予定を立てる」ことを平気でしますし、そうでなくてはうまくいかないと思います。でも、だんだん年を重ねてゆくと、そんな計画もむなしくなります。今を生きること、そして、次の瞬間を生きることが誰でも、難しくなってくるからです。そんな高齢者がおもにかかる「認知症」という病気も、高齢の重荷を自分で荷いきれないからこそ、かかるような気がします。(そのために回りが大変になるのですが)

福音の中に登場する金持ちは、自分ではどうすることも出来ない未来に空しく夢を描き、それが「絵に描いた餅」だと知らされます。どんなに財産があっても、それを使うためには命が必要ですし、それは自分のものではなく、神様からいただいたものなのだ、ということを忘れたからです。空しいことは、それがわかっているはずだったのに、忘れて計画してしまう愚かさです。わたしたちもまた同じようなことを繰り返しています。自分で使いきれないものをため込んだり、処分するのに困るように物を持っていたり。わたしたちが、こんなに愚かであることを、今一度認め、その空しさに気づくことができますように。


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