主日の典礼 2021年

9月5日 年間第23主日  
マルコ7章31~37節

(イエスは)天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。(34節)

イエスの奇跡は、イエスご自身の本当の姿を現すものです。しかし奇跡を見ても、心が開かれていないなら、それは印(しるし)にはなりません。病気をいやすイエスは、本当の癒し主、いのちの与え主である御父の姿を示します。イエス自身が、人生の痛みや苦しみを知るということは、神である御父がそれを深く理解しているということです。

今日の福音では、イエスはこの耳の聞こえない人の痛みや苦しみに共感し、深く息をつき、「開け」と言われました。単に言われた、というよりも叫んだといってもいいかもしれません。イエスのこの叫びは人間のどうしようもない弱さと痛み、悲劇的な状況を打ち破ろうとする叫び、人間を真の自由へと解放しようとする叫びなのではないでしょうか。

わたしたちの今の世界も悲惨な出来事に満ちています。わたしはそのような状況を見ても、なんだか鈍くなっている自分がいると感じます。毎日のニュースや、新聞の報道を見ても、通り一遍のため息しか出さず、また日常生活の細々としたことに、心を向けてあくせくしています。自分の関心のあることにしか心を開かず、ぼんやりとした「平和」にどっぷりとつかっているようです。

そんなわたしにもイエスは「開け」と叫び、呼びかけています。本当に開かれるべきはわたしのかたくなさ、聞こうとしない耳、見ようとしない目なのです。イエスの叫びに開かれること、それに気が付くのも、わたし自身でしかありません。わたしの心を目と耳を開くのは、イエスだけなのだと意識したいのです。


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9月12日 年間第24主日 
マルコ8章27~35節


「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)

今日の福音は、3つの段落に分けられる、と「主日の福音B年」(オリエンス宗教研究所、1994年)にはありました。それは「イエスは誰か、キリストとは誰か、キリスト者とは誰か」という三つの問いかけに応えるものだということです。

イエスは誰でしょうか。ペトロが答えます「キリスト(メシア)である」と。

 キリストとは誰でしょうか。「死んで復活する者」とイエスが答えます。

 キリスト者、つまりキリストに従う者とは「自分の十字架を背負う者である」と言われます。

 わたしたちはイエスの言われた言葉に従い、一生懸命にイエスに従おう、付いて行こうとしています。

 とはいえ、なかなか自分を捨てることはできません。自分というものは、厄介なもので、たとえ捨てきれた、と思ったとしても、もうその瞬間から、自分が出てくるというものだからです。どんなにあがいても、努力しても、なかなかうまくいかないというのが本当のところですが、こうも考えられるのではないでしょうか。うまくいかないと言いながらも、気が付いたら本当に変わっていた、と。

現代社会では、なんでも自己責任が普通です。自分でやること、自分のことは自分で始末をつける、それが責任というものだ、と考えられています。でもそうばかりは言えない時もあります。

すべて自分がやることは自分の責任だと考えることは、成功すれば自分の力で成ったと思いあがることにつながりかねません。それは裏返してみれば、失敗した時に「絶望」してしまうことになるのでしょう。わたしたちはイエスに従うものとして、イエスがだれで、キリスト者がどうあるべきかを確信することが大切です。どんなときにも、わたしだけで立っているのではないこと、キリスト者としてイエスに従い、イエスとともにすべてを行うのだ、ということを忘れないようにしたいと思います。


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9月19日 年間第25主日 
マルコ9章30~37節


わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。(37節)

イエスの生きていた時代、子供たちはどのように生きていたのでしょうか。もちろん家庭の中で、いつくしまれて育てられたことでしょう。それでも生活の厳しさは今とは全く違いますから、小さいころから労働の厳しさに身を置いた子供たちも多かったでしょう。また、豊かな家庭でも男子と女子の区別、長男とそれ以外の子の区別など、様々な形で生きてゆくのに困難があったと思われます。現代社会では幼児や児童は法の保護の対象ですが、この保護制度(児童福祉法)も戦後まもない1947年に公布されたのですから、それ以前は、児童幼児は特別に保護されるべき対象とも考えられてはいなかったのでしょう。

ですから、イエスのこのことばは、児童を保護する、といった観点ではなく、その当時の子供たち、「手がかかり、養わなければならない扶養家族である人間」としての子供たちだったのではないでしょうか。

 つまり、かわいいから、か弱いから、「このような子供を受け入れる」のではなく、手がかかって、まだ人間扱いされていない子供を受け入れなければならないのだと思います。たとえばそれは、だらしなかったり、聞きわけがなかったり、言うことを聞かない子供たちだったかもしれませんし、栄養の足りない、病気の、何もできない幼児であったかもしれません。わたしたちは、そのような手のかかる「子供たち」をイエスの名によって受け入れるように言われているのです。

現代の日本では、だれのことを言っているのでしょうか。認知症になった高齢者、動けなくなっている障がい者、働くことをゆるされない難民、国外からの移住者、親から見捨てられた子供たち、家庭を持たない若者、ホームレス、失業者、引きこもっている人、精神を病んでいる人などなど。わたしたちは彼らを「イエスの名によって」受け入れなければならないのです。それはイエスを受け入れることだからです。勇気をもって心と教会を開いていきましょう。


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9月26日 年間第26主日 
マルコ9章38~43、45、47~48節  


キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。(41節)

キリストの弟子とは、キリストの名前で呼ばれるもの、つまりキリスト者のことです。わたしたちはキリストの名前で呼ばれているものに違いはありません。どこが「キリスト者」の特徴なのでしょうか。

先々週の福音で、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたたように、これがキリスト者としての条件でしょう。

ですから、誰かがわたしたちキリスト者に何かしてくれたら、その報いを受ける、ということなのですが、わたしたちが「キリスト者」に何らかの愛の行為をすること、ということも重要なことでしょう。

わたしはこのみ言葉を読むとき、いつもわたしにいろいろしてくださる親族や恩人のことを考えていました。彼らにはきっと報いがある、わたしもお祈りしなくては、と。わたしがすることは何なのか、とはっと気が付きます。受けるだけで、少しも返せていない、あるいは、水を差し出すこともないのでは?

わたしのように、恵みに対して鈍く、感じ取れないでいると、報いを取り次ぐこともせず、ただ、受け取るばかりで、何もしていなかった、ということになるのでしょう。それはわたしがうっかり人に甘え切って、自分の「弟子」としての働きも、意気込みも忘れているからなのです。

自分のあるべき場所をきちんと確認し、自分がまず人に与えることを忘れないように、常に、イエスの弟子として、歩みたいと思います。



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