主日の典礼 2021年

10月3日 年間第27主日  
マルコ10章2~16節

子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。 15節 子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。十五節

神の国に入るためには「子供」のようにならなければならない、とはどういうことなのでしょうか。以前もここに書きましたが、現代では子供、児童、未成年者は保護されるべき対象です。人間は一人では生きていけないものですが、特に保護者を必要としている幼児、児童は大切にされるべき存在です。けれど、イエスの時代には、そのような考え方はなかったようです。もちろん大切に育てられてはいたとは思いますが、貧困や、政治的抑圧、戦争などが子供たちを苦しめていたことでしょう。そのような苦しみは、大人を苦しめ、そしてそれは弱い立場にある多くの子供や老人、病人をさらにひどい状態へと追い込むものでした。

聖書の世界では、子供は「小さな大人」とみなされ、働きや学問などに一人前になることが求められていたと聞きました。現代でも発展途上にある国々、経済的に貧しい国では、子供たちも立派な稼ぎ手にならざるを得ないことは当たり前のことです。日本でも、貧しい子供たちは、満足に三食を食べることができないと聞きます。わたしたちはこの現状をどのようにみているのでしょうか。

子ども食堂やフードバンク等によって、行政の網からこぼれている子供たちを援助する活動もあります。けれど、コロナ過でその活動も大変厳しいものがあると聞きました。

神の国を受け入れるのは、単純に神の教えを受け入れ、実践する人であるだけでなく、その当時の子供のように、あるいは、現代に生きる、抑圧され、貧しさにあえぐ子供たちのように、苦しんでいる人々、人から邪魔にされ、疎外されて、それでも生きようと必死になっている人たちであるかもしれません。わたしたちは信仰を持っている、教会に通っていると言いながら、このような厳しさにさらされてはいないかもしれません。けれども、神の国、永遠のいのち、神の本当の愛へとたどり着くために、厳しさも、あえて受け止める覚悟が必要なのではないでしょうか。


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10月10日 年間第28主日 
マルコ10章17~30節


イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」二十一節

永遠のいのちを求めていたこの青年はイエスに何を求めていたのでしょうか。イエスが言われたこと、神の掟を守ることに熱心で自他ともに「これで大丈夫」と思っていたかもしれません。だからこそ、彼の問いかけには、何か傲慢さが見え隠れしています。「これで十分でしょう、ほかに何があるというのですか」というように。

もちろん、これはわたしの偏見かもしれません。本当に真剣にイエスに尋ねたのかもしれませんが、残念なことにイエスのことばは、彼には届かなかったようです。「悲しんで去った」という彼は、たくさんの誉め言葉を期待していたのでしょうか。それとも、永遠のいのちを保証することばを欲していたのでしょうか。イエスが「いつくしまれた」そのまなざしは、自分のことでいっぱいになっている青年には届かなかったのです。

 彼は悪い人ではありません。どこにでもいる普通の人です。だからこそ、イエスは彼の心を真剣にとらえ、真剣な答えを返されました。「持っているものをすべて売り払う」ことは、両手を空にすることです。空っぽの手は、不安と恐怖、怯えが付いてきます。けれど、イエスのいのちのことばをつかみ取るためには、空の手でなければならないのです。

 「空の手で、はだしのままで」という聖歌のように、イエスについてゆくことができるでしょうか。人間にはできないこと、できそうもないと思えることも、御父は実現してくださると信じていきたいと思います。


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10月17日 年間第29主日 
マルコ10章35~45節


あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。四十三~四十四節

先週の福音の続きです。金持ちは天の国に入るのが難しい、とイエスは言われ、それに驚愕する弟子たちの姿です。当時の社会では、裕福さは神からの祝福の表れでした。貧困は、神の呪い、病気や障害は罪のせいだったのです。現代社会ではそんなことはない、と言い切れるでしょうか。わたしたちは、裕福な人、人気のある人、有名な人に対して、しばしば羨望の目を向けます。現代の若い人々、また子供たちにとっても、なりたい大人はお金持ち、ユーチューバーなのです。それはお金があって有名な彼らが、あたかも現代社会におけるスーパーヒーローのように輝いて見えるからでしょう。

ただしその輝きは、「輝いて見える」ことでしかないのですが、人々はそれこそが大事だと考え、そこから動こうともしません。そんな人々にとっては、今日のイエスのことばは、なんとも時代錯誤、夢物語、空々しいことに聞こえているかもしれません。

「一番偉い人」とは、「仕える者」であり、「すべての人の僕(原文では奴隷)」なのです。おそらく現代でも「仕える人」はたくさんおられると思います。コロナで大変な思いをして働いておられる医療従事者や、保健所に働く人、救急車に乗る方々、家庭で、学校で、職場で、目に見えないところで働き、人々の生活を支えておられる方など、わたしたちが気が付かなくとも、大声で叫ばずに、地味な仕事に一生懸命になっていらっしゃる方がたくさんおられます。机上で空しい論争を繰り広げたり、批判や分析、論争だけで終わるのではなく、地に足をつけ、一生懸命に働く人々は、自分が偉い人だとも自覚することはないのです。どうかわたしたち一人ひとりが、そのような、神の心を心とすることができるよう、仕えあい、奉仕しあい、愛し合うことができますように。


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10月23日 年間第30主日 
マルコ10章46~52節  


多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。四十八節

エリコの盲人の話は、イエスのエルサレムへ向かう旅の途中で起こった出来事です。きちんと名前が伝えられているエリコの盲人は、福音書の中では稀有な例です。たくさんの奇跡や、イエスとの出会いがあった多くの人びとは、名前さえ記録されないで、時のかなたに埋没したかのようです。この盲人は、その熱心さと頑張りによって、長く記憶されたのかもしれません。実際、多くの人が彼を黙らせようとしたのですが、彼はかまわず、叫び続けたのです。

イエスが「なにをして欲しいのか」と尋ねられた時も、ちゅうちょなく自分の望みを言い表します。遠慮も何もないのです。わたしは彼の中に、必死に祈る人の姿を見ます。祈る人は、その望みがよいのか悪いのか、人の思惑も、周りのことも、自分の行く末や、それがかなった後のことなど、何も考えていないのです。望みがかなえられないのは、そんな必死さがないのかもしれません。もちろん、わがままな、自分勝手な望みの時、それはかなうことはないでしょう。自分勝手、自己中心の思いは、祈ることをしないからです。祈ることは、自分の無力さを自覚し、それを超える力を望んで歩もうとする人の行為ではないでしょうか。

エリコには多くの人がいたと思います。その中で特にこのバルティマイの奇跡が語り継がれるのは、彼こそ、祈る人の本来の姿を現し、わたしたちの見本となっているからではないでしょうか。



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10月31日 年間第31主日   
マルコ12章28b~34節  


「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」二十八節

多くの人がイエスに質問を浴びせかけますが、それぞれ論破されたり、へこまされたりして退いた後、この学者の質問がなされました。ルカによる福音書では、この質問をした人は、「自分を正当化しようとして」(ルカ十章二十九節)他の質問を続けますが、マルコによる福音書では、この質問をした人は「賢い答え」をしてイエスから褒められるのです。

「どれが第一の掟ですか」という問いは、実のところ「あなたは何を一番大切にしているのですか」という問いでもあります。イエスはそれに「神」と「隣人」という二つのものを上げられました。二つのものですが、実は一つのことです。なぜなら、神はわたしを造られ、隣人をも作られたからです。神を愛する理由が、創造主としての父なる神であるならば、神が造られた隣人(すべての人)を大切に思わないのは、神をないがしろにしていることだからです。質問した学者はそのことをよくわかっていたようです。だからこそ、彼は隣人を愛することは「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」(33節)と答えることができたのでしょう。

 大切な掟ではあっても、それを実行するのはとても大変なことです。簡単に愛する、たいせつにすると言っても、自己中心なわたしたちはなかなか実行できずに苦しんでしまいます。けれど、簡単に実行できることだったら、それだけの価値しかないでしょう。むつかしいことこそやりがいがあるのではないでしょうか。日常の営みのうちに、この大切な掟を繰り返し実行し続けること、失敗してもやり直そうとすることこそ、最も大切なことではないでしょうか。



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