主日の典礼 2021年

8月1日 年間第18主日  
ヨハネ6章24~35節

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。(35節)

イエスの時代は、今のように食べ物が豊かでなかったことは確かです。というより、現代、特に現代先進諸国の食糧事情は、かつてないまでに「豊かな」ものとなっているようです。日本の社会では、コンビニ、スーパー、デパ地下に食料品があふれています。とはいえ、このような豊かさは、とてももろいものではないでしょうか。

 パンデミックによって、わたしたちの生活は大きく転換せざるを得なくなりました。いろいろな制約が課され、夜遅くまで開いていた飲食店は休業せざるを得なくなり、食事も会食は禁じられ、一人で食べることになっています。おしゃべりしながら食事をすることは、とても大切な交わりの手段であったため、多くの人が寂しさを感じてることでしょう。そのうえ、休業や解雇、閉店や業務の縮小などによって、収入が減り、生活に困るようになった家庭も多いと聞きました。このような困難な時期、かつての「豊かな」生活を懐かしみ、憤りや焦りを感じたり、先の見えない不安に翻弄されたりする方もいるかもしれません。この時にこそ、イエスのことばがわたしたちを力づけてくれるのではないでしょうか。

いのちのパンであるイエスは、わたしたちに生きるようにとご自分を差し出しておられます。どんなときにも希望を失うことの内容「いのち」を与えてくださる主を信じるよう、招いておられます。飢えること、渇くことのないという約束を、わたしたちは信じ続けたいと思います。苦しい時代だからこそ、そこを超えようという希望を持ち、新しい時代が来るのだと確信をもって歩んでゆきたいと思います。


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8月8日 年間第19主日 
ヨハネ6章41~51節


わたしは命のパンである。(48節)

先週の福音に続いて、同じ言葉が繰り返されますが、それに対して人びとのネガティブな反応が書かれます。わたしたちもイエスのことばを信じたいと思いながらも、閉塞的な状況に、力を落とし、うなだれ、希望が持てない時があります。

イエスは、大勢の人々に向かって話されました。ある人々は、それに対して信仰をもって答えることができましたが、他の人は、自分の思い、自分の考えや信条、そして様々な「守りたいもの」のために素直に受け取ることができませんでした。

わたしたちはどうでしょうか。イエスを信じている、と言いながら、自分の中にある大切な何かを手放せないでいるときがあります。手を空っぽにしないと、受けることができない、と言われたことがあります。細い紐一本でつながれていても、小鳥は空に飛び立つことができない、と言われました。わたしのうちにある「何か大切なもの」が、わたしをイエスのもとへ、御父のもとへ、聖霊の勧めに、応えるための妨げとなっていることはないでしょうか。

多くの人がイエスの出自にとらわれ、イエスのことばの本質を見失っています。わたしたちもその人の背景や、漠然とした印象、自分に対する態度などに左右され、人の本当の姿を見ていない時もあるのです。隣人を見誤り、偏見を抱いてしまうなら、そこにおられる御父の姿にも気が付かないでしょう。今生きているその時に、本当の姿を見ることができるよう、心をその人に向けていきたいと思います。


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8月15日 聖母の被昇天 
ルカ1章39~56節


身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。(48~49節)

聖母の被昇天の祭日は、終戦記念日です。太平洋戦争が終わって、もう76年もたつのですから、日に日にその記憶は薄れ、知っている方は天国に召され、体験を語る人も少なくなっているでしょう。わたしたちの多くは、戦後の平和な時期に育ち、平和な日本で過ごし、平和の恩恵を受けてきました。

けれど、太平洋戦争が終わった後も、世界中で戦いが無かった日はありません。どこかで戦争が、内戦が、テロが、殺戮が、理不尽な差別と殺人が起こっています。わたしたちが平和な世界に生きているからと言って、それらを見過ごして言い訳がありません。平和の君であるイエスは、母であるマリアにも「平和の元后」という名を授けて、わたしたちの模範としてくださいました。

 平和の母であるマリア様は、様々な争いをやめ、憎しみを愛に変え、痛みをいやしに、絶望をゆるぎない希望へと変えるようにと祈っておられ、またそれを実現しようと努力する人々を励ましておられるのです。

どんなに痛みが大きく、苦しみ、傷つけられたとしても、ゆるしが与えられることを十字架のイエスと、その足元に立ったマリアは教えておられます。苦しいことの多い昨今ですが、それゆえに、本当の癒し主であるイエスのもとへ、マリアに導かれて駆け寄ることができますように。

また、この時期は仏教でいうところのお盆でもあります。わたしたちも死者の魂のため、最近亡くなった人々、身近な死者を記憶しつつ、また、だれにも記憶されずにひっそりと亡くなった方々のためにもお祈りしてまいりましょう。


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8月22日 年間第21主日 
ヨハネ6章60~69節  


主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。(68節)

わたしたちはイエスを「道、真理、いのち」として敬います。先日、わたしたちの小教区の神父様が、お説教の中で、このことについて話してくださいました。普通、道は目的地に至る手段です。どこに着くか、普通、道は地図が必要ですし、目的地までの案内も必要です。そして目的地に着いたあと道は必要なくなります。けれどイエス、道であるイエスは、道であると同時に目的地でもあるので、イエスを選んで歩いてゆくことは、決して間違わないということ、確かな目的地にたどり着くことができる唯一の道である、ということなのです。そう話してくださった司祭も、また、イエスから選ばれ、イエスのために一生を捧げようとされて、その道を歩んでおられます。

洗礼を受けた私たちは、イエスとともに、御父への道を歩みます。「誰のところ」に行くかをしっかりとご存じのイエスを道として、イエスという道の上を歩むのです。「永遠のいのち」を持つイエスのことばを心に抱き、イエス自身を旅路の糧として食べて歩む、そんなわたしたちは、今日の福音のペトロにように「あなたのほかには向かう目的はないのです」としっかりと宣言できるでしょう。

 多くの人が目的もわからず、あるいは間違った目的に向かってしゃかりきに歩んでいます。彼らが本当の光に照らされ、道でありいのちである方に迎えるように、わたしたちも祈り、開き、努力してゆく必要があるのです。



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8月29日 年間第22主日   
マルコ7章1~8、14~15、21~23節  


『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』(6~7節)

御父へと向かうことは、本当は自由で、喜びに満ちたものであるはずなのに、どうしてわたしたちは時々その道が険しくつらいものに感じてしまうのでしょうか。口先では御父のみ旨を果たします、と言いながら、実際の生活はそこから遠く離れてしまっているのではないでしょうか。掟が辛く、いやなものに感じてしまうのは、それを枷として、壁としてとらえてしまっているからではないでしょうか。「守る」ことは防御とも通じることでしょうか。やってきたこと、築いてきたことを必死になって守ってゆくとき、そこには喜びがあまり入らないように思います。かえって、いただいた恵みに喜んで応えてゆくことこそ、本当に「掟を守る」ことにつながるような気がします。

大切にすべきは、その「守るべきこと」を与えた方の本当の心です。掟の細部を取り上げて、守っている、いないということではないはずです。

 最近、教皇様の発言が教義に反するとか、教会法に合わないとか考えたり発言したりする人もいると聞きます。いろいろな発言は、そのコンテクスト(話された状況や文脈、前後関係、脈絡)を知って理解しなければならないのですが、小さな一つのことばを取って、掟に合う、合わないで判断することは危険なことです。様々なメディアや、インターネットなど、情報のそれぞれも、このコンテクストが大切なのです。たった一つのことばをとって、それを批判することはたやすいことです。けれど、いろいろな人の発言を聞くとき、心を開き、愛を持って受け止めなければ、わたしたちは現代の「ファリサイ人」、律法主義者になってしまいます。何よりも優先されるのは愛なのですから、教皇様のことば、教会の情報も含めて、多くの人、隣人や姉妹、家族のことを心を込めて理解し、聞きたいと思います。



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