主日の典礼 2022年

10月2日 年間第27主日   
 ルカ17章5~10節

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言った(5節)

わたしたちの内に「信仰がある」と考えるのは、何を根拠にしているのでしょうか。

 毎週ミサに行っているから信仰があるのでしょうか。教会活動を熱心にしているから?あるいは、教会に一生懸命献金しているから信仰があるのでしょうか。

実のところ、そういった活動をしていても、わたしたちは自分に害する人をゆるすことができませんし、祈りによって世界を平和がもたらされると、なかなか信じ切れていません。

そうです。この「信じきれない自分」がどこかにあるからこそ、「信仰を増してほしい」と望みます。

信じるという行為は、自分の行為なのではなく、神様の愛をどれくらい感じ、それに身をゆだねているか、という行為なのだと思います。

「わたしは信じます」と信仰宣言にはありますが、それは、わたしにとっては、「どうか信じさせてください」と宣言することです。

難しいことがいっぱいあっても、信じていたいのです。信じる力を与えてください、信仰がないのは重々承知ですが、みじめなわたしを憐れんで、信仰をお与えください、と祈るよりほかはないのだと思います。


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10月9日 年間第28主日  
ルカ17章11~19節


その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。(15節)

感謝の言葉を惜しむことなく伝えたいと思います。だれに? すべての人に、そして、何より御父に。

とはいえ、日常では、感謝ばかりしているわけではありません。

不平や不満がたまったり、人の欠点ばかり目に着いたり、そして自分の弱さや貧しさに謙遜になるよりも、プライドが侵されて落ち込んだり、腹を立てたり。日常の様々なことで、感謝よりも不満が、受けた恵みよりも、足りないことが気になり、ますます自己肥大してしまうのがわたしたちではないでしょうか。

だから、わたしは周りのことに、どのように感謝しているのか、振り返ってみると、ぞっとします。感謝しているよりも、不平不満を人々にぶつけているからです。それ以上に、わたしが周りに不快な感情を与えていることについてもぞっとします。

いろいろなことがわたしの日々を埋めていますが、その中で、本当に主に感謝し、主の思いを知り、その行いに感謝できることを意識していたいと思います。


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10月16日 年間第29主日 
ルカ18章1~8節


あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。(5節)

不正な裁判官の「言ったこと」は、自己中心でしかありません。自分が嫌な目にあいたくないから、行動を起こすのです。天の御父とは全く動機が違います。とはいえ、彼はやもめ(弱い立場にある人)のために裁判を行なうのです。おそらく裁判官は金持ち(やもめの敵)に有利になるよう、やもめの訴えを取り上げなかったのかもしれません。けれどその不遜な考えを変えたのは、やもめの執拗な訴えでした。

わたしたちの日々が、痛みに満ち、御父に向かって叫ぶものであるならば、このやもめの立場と同じように、執拗に呼び求めることになるでしょう。けれど、何も感じず、痛みも、抑圧も感じていないなら、わたしは不正な裁判官のように「神を神とも思わず」、無意識のうちに神を排除して過ごしていることになるのだと思います。


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10月23日 年間第30主日  
ルカ18章9~14節   


世界宣教の日

徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。(13節)

自分が罪びとである、と自覚している人は、どうするでしょうか。

目を上にあげず、この徴税人のように痛悔の祈りを唱えるのが正しいのでしょうか。この徴税人も罪の自覚はあっても、日常では、そんなそぶりも見せず、目の前のことに一生懸命になっていたのではないでしょうか。

  もちろん、罪を自覚している人は、おごり高ぶることを避けようとするでしょう。それでも日常のあらゆることについて、ずうっと目を伏せて歩いてゆくわけにはいきませんから、仕事や奉仕、人との交わり、家庭での生活、友人との交流など、楽しいことや、慰めになることもあったと思います。とはいえ、彼の日常の姿勢は、おのずからファリサイ派の人びととは違ったものだったと思います。

わたしは、そこが肝心なのだと思います。罪を犯し、自分の弱さを知る人は、自分が一人ではどうしようもないこと、神から支えられて、初めて生きてゆくことができると自覚しているのです。金持ちであれ、貧しい人であれ、その出発点に戻ることができる人、それこそが、神の前に貧しく生きる「幸いな人」であると言えるのです。



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10月30日 年間第31主日  
ルカ19章1~10節   


人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(10節)

今日の福音は、徴税人ザアカイのはなしです。エリコの町でも金持ちで、けれど背が低く、おそらく人々には嫌われていただろうザアカイは、「イエスがどんな人か見よう」としました。

それは単に興味本位だったのかもしれません。有名な人、評判の高い人を見たい、という思いだけでは、ザアカイの必至な思いは説明できません。何か、決定的なもの、イエスに対する思い入れが彼にはあったのだと思います。

 イエスは、ザアカイが多くの人に向かって財産を施すと宣言したあと、「失われたものを探して救う」人の子の使命を宣言されます。ザアカイはこのことばによると、「失われた羊」、「無くなった銀貨」、「いなくなった放蕩息子」なのでした。

 そんな彼は、イエスのことば「ぜひあなたの家に泊まりたい(泊まらなければならない)」によって、人々の突き刺さるような視線、陰口をものともせず、しなければならないことを瞬時に悟ったのです。

 多くの人は、イエスを「見ました」。けれど、回心し、生き方を変えた人は、そのすべての人ではありませんでした。わたしたちもイエスを見ています。だからこそ、ザアカイの生き方を自分のものとするよう、今、ここで、招かれていることを忘れたくないのです。



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