主日の典礼 2022年

5月1日 復活節第3主日   
ヨハネ21章1~19節

イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(6節)

復活されたイエスに出会った弟子たちは、自分たちのホームグラウンドであるガリラヤ湖に帰ってきています。そこで今までと同じように、漁をして働こうとしているようです。そんな彼らの前にイエスが姿を現すのですが、彼らははっきりとイエスを認識することができませんでした。

わたしたちの状況ととても似ています。日常生活の中で、様々な出来事や仕事に翻弄され、一生懸命にやっているつもりなのに、どこか空回りしてしまうこと、あるいは、疲れて、何をしてもうまくいかないと思ったり、うまくいっていたはずが、ちょっとしたことで、困ったことになってしまったり……。

わたしたちの日常は、そんな具合にいろいろなことで上ったり下ったり、激しく揺れ動いています。今日の福音にある弟子たちのように、一晩中働いても、少しも報われないでいることもあるかもしれません。それでも日々は過ぎてゆきます。次々とやってくることをこなしていかなければなりませんし、やってもやっても終わらない、という感じがします。

イエスはそんなわたしたちの日常に「舟の右側に網を打ちなさい」と言われます。  船の中にいる人には、どうしてそんなことを言うのか、理解できません。(ついさっきまで、おなじことをやっていても取れなかったのに…)という心の声が聞こえそうです。それでも網を下ろしてみると、思いがけない大漁です。

 わたしたちはどうでしょうか、イエスのことばを聞くことができるでしょうか。イエスは今もわたしたちに呼び掛けておられます。いろいろな人の口を通して、テレビニュースによって、教皇様のことばによって、世界中の出来事によって。わたしたちは、その言葉を正しく聞き取ることができるのでしょうか。どうすればそうできるのでしょう。素直な心でイエスの前に自分を開いてゆくことができればと思います。


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5月8日 復活節第4主日  
ヨハネ10章27~30節


わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。……わたしは彼らに永遠の命を与える。(27,28節)

復活節第4主日は、「善い牧者の主日」と言われ、世界召命祈願日にもあたっています。世界中の教会のため、すべての人々の召命のために祈る日、司祭・修道者の召命が増えるように祈る日でもあります。

召命と言っても、それは固定された、決まりきったものではありません。すべての人が生きていくとき、自らの使命を感じ、それに従って生きてゆこうとすることが、「召命(呼びかけ)」と言われるものです。

ある人はキリスト者として結婚したり独身であったりしながら、世界の中で宣教活動に従事するように招かれます。別の人は、特定の修道会の霊性を生きるように呼ばれ、そこで聖別奉献の道を歩むように招かれます。また、ある人は司祭職という奉仕の道を歩むように招かれるのです。

それは一瞬の呼びかけの声にこたえることではなく、生涯を通して、主の声に従って歩む道です。ある人は結婚、ある人は独身で、また、聖別奉献の道、奉仕職の道と様々な道があります。また、現代社会には、教会の中でも多くの道があります。それを選んで歩むように促されるのは、天の御父であり、キリストご自身です。誰も自ら選んでその道を歩むのだ、という人はいません。その道を示してくださるのは御父です。それに応えるかどうかは、わたしたちの意志にかかっています。もちろん、それぞれの道を歩んでいながら、それではないことに気が付くこともあるでしょう。けれど、根源的な選択は常に神様と自分がどのように向き合っているか、ということにかかわってゆくのです。

誰に強制されるわけでもなく、神様の望まれることをしたいと答える信仰の道こそ、本当の召命、招きに応える道なのです。

多くの人が、牧者であるキリストとともに、主の道を歩む勇気と、それを続けてゆく力強い歩みができるよう、そしてわたしたち自身も、自分の召命に常に忠実であるように祈ってまいりましょう。


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5月15日 復活節第5主日 
ヨハネ13章31~33a、34~35節


あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(34節)

先日、「家庭の友」の4月号にあった稲川神父様の記事を見て考えました。そこにあったのは、「好きであること」と「愛すること」は全く違うことだと、ある神父さんが教えてくださったことでした。

 「好き」というのは、その対象(好きになったこと、人、モノ)が主人で、「好きな私」は、それに仕えるものです。対して、「愛する」ことはわたしが主体で、わたしの意思によって対象(人、モノ)に対峙することなのだそうです。正確ではないかもしれませんが、一応こういったことでした。イエスは「互いに好きになりなさい」ではなく、「互いに愛し合いなさい」と言われたのは、当たり前のことだったのですが。

人間はいろいろなことを好きになったり、嫌いになったり、また好きになったりと、忙しいものです。けれど、神様は人間のここが素晴らしいから「好き」になられるのではなく、そのままの人間を「愛して」下さっています。人間は素晴らしいものかもしれませんが、それはもっているもののせいではなく、人間として神様が想像されたその存在自体が、かけがえのないものであるからです。

何か(物、お金、美貌、地位など)を持っているから、人から「好かれる」のではないでしょうか。それならそれがなくなったとき、人の「好き」はなくなってしまいます。あるいは嫌われるかもしれません。わたしたちは「好き」であること、「好かれること」を最も重要なことだと感じています。好きだからこれをする、嫌いだからあれはしない、好きな人と嫌いな人のカテゴリーをつけたり、好きなことについては無条件で受け入れたり。

けれど、この世界を動かす「好き」の感情は、じつは「愛する」ものの前にはなくなってしまうのではないでしょうか。「好き嫌い」が「愛する」ことによって覆ってしまうこの世界の本当の姿を、わたしたちは見失わないようにしたいものです。


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5月22日 復活節第6主日  
ヨハネ14章23~29節   


弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(26節)

今日は、「世界広報の日」です。わたしたちの修道会の創立者福者ヤコブ・アルベリオーネ神父は、19世紀から20世紀にかけて劇的に変動する社会に対して、福音宣教をするために「メディア」という手段を使うことを考え、そのためにパウロ家族という修道家族を創立しました。彼の思いは、この「世界広報の日」につながっています。

毎年この日には、教皇様のメッセージが発行されますが、今年のテーマは「心の耳で聞きなさい」です。(まだ日本語の訳が公にされていませんので、これはわたしの翻訳ですが)教皇様は「聞く」ということばを大切にしておられます。耳を傾け、相手の声を聴くということは、単に音を聞いたり、興味のある情報を得るためのものではありません。わたしたちは相手の声を聴くとき、その人の心の内容を受け取っているのです。

様々な問題が起こったとき(特に戦争が始まったとき)、相手の声に耳を傾けることはとても難しいことです。多くの場合、自分たちの声を聞いてもらおうと、双方が必死になるからだと思います。そういう時には、声の大きな方、弁舌の立つ方が、相手を言い負かし、自分の意見を正しいものとして押し付けてしまうことになるでしょう。

わたし自身も本当に良くないと思いつつ、相手の声を聞いていないことが多くあります。分かり切ったことだから、何度も聞いたことだから、全然自分を顧みていないから、相手の人に非を見て、頭から聞こうとしない自分がいます。こういった時、埋められない溝ができ、決別、非難、憎悪の応酬となってしまいます。一人ひとりは悪くないかもしれません。けれど、人が一緒に生きようとするとき、自分のことばで、大声で怒鳴りあうよりも、お互いの声に耳を傾けることが大切なのだと思わざるを得ません。

むつかしい状況に陥っている人は、決して一人ではその状況を解決することはできないのです。この時にこそ、聖霊の助けが必要です。すべてを教え、導いてくださる聖霊の助けによって、本当に耳を傾けて「聞くこと」ができるよう、心から聞き入りたいと思います。相手に聴いてほしいと思うときこそ、自分が黙り、相手のことばを聞く時であると思います。



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5月29日 主の昇天  
ルカ24章46~53節  


わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。(49節)

イエスは復活された後、四十日間地上にいて、それから天に昇られた、というのですが、復活したイエスが「うろうろと」地上をさまよっていた、と考えることはできません。復活されてイエスは、この地上の制約をなにも受けることなく、距離も時間も超越した神のいのちに生きるかただからです。

復活の神秘は、この神のいのちに入るということ、永遠のいのちこそ、神のいのちであり、イエスの死と復活は、わたしたちにその勝利を勝ち得たことだったのです。

ですから、昇天という出来事は復活したイエスが、「キリスト」として高くあげられた出来事、つまり、「天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられる」(ヘブライ八章一~二節)ことなのです。イエスの人間としての地上のわざは終わり、キリストとして天の御父の右に座しておられるのです。ですから、この地上でイエス・キリスト「の使命を受け継ぎ、福音を宣べ伝える使命は、教会とわたしたちに託されているのです。(「カトリックの教え」94ページ参照)

「わたしたちに託された」ということがとても大切なことだと思います。わたしたちはイエスの使命を実現するために派遣されるのです。だからこそ、聖霊の助けによって、「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」(マルコ十六章十五節)というキリストのことばを実現するために、わたしたちは一人ひとりが宣教者なのです。


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