主日の典礼 2022年

4月3日 四旬節第5主日   
ヨハネ8章1~11節

イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(11節)

イエスのことばはわたしたちの心にも、深くしみ込んでゆきます。わたしたちの弱さとは、罪を犯してしまうということだけではなく、同じようなことを繰り返してしまうことでもあるからです。いろいろな弱さをまとい、もうこんなことはしない、と考えても、いつの間にか同じようなことを繰り返してしまう、というのは、誰でも経験していることではないでしょうか。こんなに苦しい思いをしたのだから、もう二度とこんなことは繰り返さない、と決心しても、同じことを繰り返してしまうのは、わたしの弱さなのでしょう。この弱さを受け入れることは、どんなにむつかしいことでしょうか。

沢山の人が、特に日本の社会では、自分の責任で、自己責任で、いろいろなことを果たすように強いられています。「強いられる」と書きましたが、まさに、社会の中で、いろいろな力がわたしたちを強制しています。「こんなことも出来ないのか」「これくらいできて当然」「もっと頑張ればいいのに」「努力が足りない」などなど、多くの人は他人を簡単に決めつけます。わたし自身も、自分と違う多くの人に対して「これくらい」とか「なんで」とか考えて、決めつけています。

このような「強いられる状態」にあるとき、繰り返される弱さは、人間を追い込み、苦しみをさらに上乗せしてしまうでしょう。この「罪の女」も、そのように決めつけられ、イエスの前に引き出されたのだと思います。

罪は、本当につらいものです。罪を犯した人だけでなく、周りの人もそれに巻き込まれます。そして、罪を犯すことはただ一人でできることではないのです。ですから、多くの人が苦しんで、傷ついてしまうのです。けれど、「正しい」人は罪を犯した人に対して、自分の正しさを押し付け、傲慢な見方で断罪してしまうのです。

 誰もが罪を犯し、しかも一回で終わることはなく、生きている限りその弱さは続いてゆきます。そのことを自覚する人は、自分は罪の女に石を投げることができないことを知るのです。わたしたちはどうでしょうか。石を投げつける「善人」「正しい人」になってはいないでしょうか。


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4月10日 受難の主日  
ルカ23章1~49節


イエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。(43節)

 四旬節もクライマックスに近づきました。受難の主日からの一週間は、教会の典礼の中で、最高の位置づけをなされ、多くの人に神の愛の素晴らしいわざを意識させる時だと思います。

一昨年からの「コロナ禍」で、教会も様々な制約を受け、洗礼式や復活徹夜祭に多くの人が参加できないという不自由に耐えています。今年はどうでしょうか。聖週間が多くの人にとってかけがえのない豊かな時間であるために、そして信じる人々の交わりの時であるように祈りたいと思います。

受難の主日の福音は、聖金曜日の受難の福音とは違い、三年周期の福音朗読箇所が使用されます。今年はルカによる福音が読まれます。

ルカによる福音の受難の箇所は、ほかの二つ(マタイ・マルコ)とはちがうところがいくつかあります。ピラトの三度にわたるイエス無罪の主張、エルサレムの婦人たちに話しかけられるイエス、両脇で十字架にかけられた犯罪人たちのエピソード、罪を犯す人々へのイエスのまなざし。このすべてにおいてイエスは「苦難の僕」の姿そのままです。イザヤ書(53章、54章)にある「苦難の僕」の姿をルカは描き、イエスのイメージと重ね合わせます。

それは、わたしたちに徹底的に仕え、苦しみ、痛みを負って死んでゆくイエスです。わたしたちはそのイエスの前に立つことができるのでしょうか。彼の痛みを本当に知ることが可能なのでしょうか。

「主の十字架をおもうとき」という聖歌あります。わたしがどんなに苦しくても、イエスもまた同じように苦しまれた、と考えることによって、痛みは自分ひとりのものではなく、分かち合って下さるイエスとともに担うものになります。常に、この思いを忘れず、イエスこそ、本当にわたしたちを救われた方であると信じ続けたいと思います。


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4月17日 復活の主日 
ヨハネ20章1~9節


先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(8~9節)

復活祭、おめでとうございます。もう春も盛りとなっているでしょう。桜は終わってしまったでしょうか。学校は新学期も始まり、新しい職場や環境に入った多くの若者もいることでしょう。教会、特に小教区は神父様方の異動の時期でもあり、若い神父様が新しい任地におもむく時でもあります。様々な希望を胸に、春の季節に旅立つ多くの人に、神様の祝福がありますように。

 聖書ではヨハネによる福音が読まれ、主の受難と死、葬りを体験した弟子たちが、安息日の翌日、朝早くに体験したことが読まれます。毎年同じ記事なので、もう読み飽きたかとも思われますが、この復活の箇所ほど不思議で、神秘に満ち、それでいて人間の現実として実際に体験されたことは他にないと思います。そして、わたしたちは、復活された主を「見る」ことができるのでしょうか。

このヨハネによる福音では「見る」という単語が繰り返し使われています。日本語では「見る」と訳されていても、ギリシア語では三種類の単語が使われています。「ブレポー」「テオレオー」「エイドン」とあり、福音記者が意識して使い分けていたと考える学者たちによれば、「ブレポー」は「(身体的に普通に)見る」、「テオレオー」は「時間をかけてじっくりと観察する・肉体の目で見る」、「エイドン」は「心の目で真理を洞察する・信仰の目で見る」と考えられているようです。(『主日の福音C年』110ページ参照)一節と五節のブレポーは、単純に見ただけのことだったかもしれませんが、最後の「見て信じた」(八節)は信仰の目で見たことを告げたかったのでしょう。空の墓を見た弟子は、「理解していなかった」にもかかわらず、「信じた」のです。理解と信仰は必ずしも一致しないのではないでしょうか。それは、わたしたちの理解が有限のもので、本当の神秘の前には、お手上げのものだからです。けれど、知性や頭がお手上げのことでも、信じることは可能です。多くの人が、言葉では説明しきれない、復活の神秘を信じ、わたしたちに伝えてくれました。それは教会の聖人たちだけでなく、信仰の先達、父母、祖父母、友人、修道会の姉妹たちです。わたしたちの信仰は彼らの確信の上に立っています。そしてわたしたちも次の世代にその確信「主は生きておられる」を伝えていかなければならないのです。


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4月24日 復活節第2主日  
ヨハネ20章19~31節   


信じない者ではなく、信じる者になりなさい。(27節)

復活の日の夕方に、弟子たちと一緒にいなかった(つまり、共同体から離れていた)トマスは、イエスを見たという人のことばを信じることができませんでした。なぜ信じることができなかったのでしょうか。いろいろな原因があります。一つ考えてみました。

人間は複雑なもので、苦しいことを体験すればするほど、自分の苦しみこそ他に比べられないことで、それをいやしてくれるものなどないのだ、と一種の優越感にひたることがあります。トマスも必死でイエスを愛したからこそ、その受難と死に際しての苦しみは大きかったと思われます。だから「生き返ったイエスがいる」(これは復活のイエスのことを理解していないのですが)、などと言われても、信じることができなかったのだと思います。イエスが「生き返った!!」それなら、自分の苦しみは何だったのか、それを無いことになどされたくない、と考えたのかもしれません。けれどイエスは「生き返った」のではなく、「復活された」のです。それは神のいのちを生きているイエスに出会うこと、信じることでしか超えられない神秘によって体験することでした。信じることがあればこそ、すべては可能であり、すべては乗り越えられ、死よりも強いものがあることを見せつけられたのではないでしょうか。

わたしたちは、ミサの時、その神秘を体験します。復活された主と交わるこの時、何よりも信じ続けることができる恵みを願いたいと思います。



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