主日の典礼 2022年

2月6日 年間第5主日   
ルカ5章1~11節

彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(11節)

弟子たちの召命の場面です。「沖に漕ぎ出して網を下ろしなさい」と言われたイエスに従って、網を下ろしたシモン・ペトロたちは、たくさんの魚を取ることができました。それが単なる豊漁だったのではないことは、漁師である彼らにはよくわかったことでした。つまり、獲れるはずのない時に、このようにたくさんの魚が獲れることは、不思議なことだということです。だからシモン・ペトロは驚き、恐れます。それをわかってイエスは彼らに「恐れることはない」と声をかけたのです。

皆さんは、イエスをどのような人物だと思っていらっしゃいますか。親しい友、頼りがいのある先生、ちょっと怖い預言者、癒してくださる方、ゆるしを与える人、罪を咎め、矯正する人、等々、いろいろなイメージがあると思います。
シモン・ペトロも多分先生については以前から聞いていたことなどから、ちょっと考えたり、思っていたイメージがあったのかもしれません。だから「わたしは罪深い者」と言ってひれ伏してしまいます。

イエスに対しても、人は先入観を持ち、それなしにまっさらな気持ちで見ることはなかなかできません。育ってきた環境や、習ってきたことが、わたしたちの聖書を読むまなざしを決めているからです。まっさらな心でイエスを受け止めることは、難しいことです。特に、仕事や、勉強や、自分の力でやり遂げたと思われることがあれば、イエスのことばや行動にバイアスがかかって、本当のイエスを見えなくしてしまうようです。

だから、何もできない時、どうしようもない時、自分が無力で、箸にも棒にもかからないと自覚するとき、イエスはその私に、真剣に向き合ってくださるのだと思います。そんなイエスを見損ねないようにしたいと思います。


Go to Top


2月13日 年間第6主日  
ルカ6章17、20~26節


イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである」(二十節)

 貧しいこととは、仕事もお金もないこと、明日の生活にも困ること、住む場所を失っていること、時刻を離れ、明日への希望も持てないでいることなのではないでしょうか。それが「幸い」「幸せなこと」と言えるのでしょうか。

聖書の中でもマタイとルカに出てくる「貧しい人は幸い」という「本当の幸福(真福)」は、今の社会でどのようにとらえられるでしょうか。貧困は人間性をゆがめ、人間のあるべき姿をゆがめます。一部の富裕層が収奪していることによって、人類の多くは、その何十分の一の生活費で暮らさなくてはなりません。教育にも食事にも事欠き、住む場所の劣悪な環境は、人々に絶望しか与えません。わたしたちはこれらのことを黙って見過ごすことはできないのです。

財の公平な分配は、教会の教えにあるように人間の正当な権利なのです。働かないから食べられないのではなく、働くことすら奪われている多くの人びとがいること、それを忘れてはならないと思います。

 わたしも、心しなければならないと思いました。何不自由のない生活をしていることになれてしまい、痛みを感じるのが、自分勝手なことがかなえられない時でしかないことを、恥ずかしく思います。

福音に書かれる「貧しさ」は、イエス自身の生き方であり、頼る人のいないおとめマリア、病気や障がいに苦しむ多くの人びとがまとうものです。わたしたちは「貧困」を排除し、それを克服するために働くのですが、福音的な貧しさを決して見失ってはならないと思います。その貧しさとは、神様だけに頼り、物質的なこと、人間的なことにはより頼むことのできない、謙遜な人の「貧しさ」だと思います。イエスのことばをより深く黙想し、天の御父だけにより頼む信仰を願います。


Go to Top


2月20日 年間第7主日 
ルカ6章27~38節


求める者には、だれにでも与えなさい。……人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。(三十~三十一節)

イエスの説教で繰り返されることばは「愛」と「与える」です。「愛する」という行為は「与える」という行為と一緒になって初めて具体的な行動を見せることができるのではないでしょうか。わたしたちは、他の人からしてもらいたいことを望み、人に要求しますが、自分ができることをなかなか行動に移せません。また、愛してほしい、たいせつにしてほしいと言いながら、自分以外の人を大切にしないなら、それは自分勝手な要求でしかないと思います。

 自分の周りの人を大切にすることを学んだら、人からいただく行為や愛を素直に感じられるのではないでしょうか。「愛する」こともまた学習しなければならないのだと思います。与え続けることが、まるで損することであるように感じてしまう現代の風潮は、何事も損得で、あるいは自分への利害で考えてしまう人間ばかりになってしまっているようです。自分を置いて人に尽くす、ということが、美談ではなくなっている今の社会で、イエスの言われる「誰にでも与えなさい」という際限のない気前の良さと奉仕の精神が、どれくらい人々に理解されるでしょうか。キリスト者と言われる人、信仰者でも、難しいのではないでしょうか。

けれど、理想だけではないのです。社会の片隅で、多くの人が自分のためではなく、痛みを感じている人、苦しむ人、困っている人のために必死で働いています。その事実を忘れず、その人々とともに、イエスの愛を伝え、実行できるように祈り働いていきたいと思います。


Go to Top


2月27日 年間第8主日  
ルカ6章39~45節   


「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」(四十三~四十四節)

おいしい果実をつける木は、丁寧に世話をされ、肥料も与えられ、たいせつにされますが、それは果物、その木からとれる果実のためです。林檎や葡萄、桃や梨など、日本には立派な果実をつける木々がたくさんあり、季節ごとに素晴らしい果物を食べることができます。新約聖書の世界でも、おいしい立派な果実をつける木々は大切にされていたことでしょう。良い実を結ぶのは良い木であるとイエスは断言されます。悪い実をつけるのは、木が悪いからなのですが、それは木のほうに責任がある、と言っておられるようです。

わたしたちは「悪い実(結果)」を見て、そのような果実を結んだことを非難します。結果が悪いのはその人の行為が悪いからだ、というのが普通かもしれません。イエスの今日のことばは、それとは少し違っているように思います。「悪い実」「良い実」という結果を見たとき、いかに悪そうに見えたとしても、良い実を結んだら、それは「良い木」なのだと言っておられるからです。

わたしたちは「実」の良しあしを見る前から判断しています。偏見と予断、独断によって木の本質をきちんと見ることなくさばいてしまいがちです。「実り」の良しあしも、形や色ばかりで判断してはいないでしょうか。イエスは「悪い実」を突ける悪い木のことを言うよりも、「良い木は良い実をつける」ことを強調しておられるのだと思います。そして、いくら「悪い木」に見えようとも「良い実」をつけることがあることを忘れてはならないと、強調されているのではないでしょうか。



Go to Top