主日の典礼 2022年

3月2日 灰の水曜日   
マタイ6章1~6、16~18節

四旬節の始まりです。今年は3月に入ってから、灰の水曜日となり、いつになく遅い復活祭になるようです。復活祭が遅い時(今年は4月17日)は、冬も長いと聞きますが、どうでしょうか。桜の花の開花が遅いかもしれません。

四旬節というと、「祈り・断食・愛のわざ」を行うときです。それは、何よりも大切な主の復活を祝うための準備だからです。何の準備もなく、ぼんやりしたまま四旬節を過ごすことがないようにしたいものです。なぜなら、主の復活の神秘は、その準備具合に応じて、わたしたちの心に響くのではないか、と思うからです。そんなことはない、などとおっしゃらないでください。わたしたちは、四旬節を大切に過ごすことによって、主の復活に洗礼を受ける多くの人びととともに、主の死と復活の神秘に近く参与することができるのです。小教区では、2年前から続くコロナ禍で、洗礼準備講座や初聖体や堅信の準備などがままならないことが多い、と聞きます。そんな中でも、洗礼を希望し、復活徹夜祭に洗礼を受けられる方もいることでしょう。彼らを御父にゆだね、わたしたちも彼らと心を一つにして、入信の秘跡の偉大な神秘を喜ぶことができますように。そのために「祈り・断食・愛のわざ」に熱心に励みたいと思います。

とはいえ、四旬節の犠牲が、犠牲それ自体を目的としているなら、残念なことになると思います。今日の福音で、三回も繰り返される「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(7,4,18節)ということばが、何を意味しているのか、しっかりと考えたいのです。天の御父は、「隠れたところ」を見ておられるということは、分かっているようで、分かっていないことです。ついつい人間的な判断で、自分を裁き、人を裁いてしまいます。「これくらいは大丈夫」と考えていることでも、天の御父がそれをどのようにみておられるか、わたしたちにはわかりません。わたしたちの考えは、御父の考えには及ぶことはないのです。人間的な考えでは、まったくわからないのだと思います。

けれど、神様は、わたしたちが自分で考えて、判断し、神様の愛に応えることを望んでおられるのです。本当に神様を愛して、その愛に応えることができるよう、「隠れたことを見ておられる父」が、わたしたちにどのような報いを考えておられるのか、改めて考えていきたいと思います。


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3月6日 四旬節第1主日  
ルカ4章1~13節


悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」(3節)

 四旬節第一主日は、イエスが悪魔に誘惑される場面です。三つの共観福音書のいずれにも、それが記されています。

現代社会における「試み」とは何でしょうか。若い人たちなら入学試験や入社のための「試験」などでしょうか。年を重ねていけば、出世や、子育てに試みられ、マイホームなどの大きな買い物が「試み」と言えるでしょうか。高齢者になると、自分の「老い」が試みになってわたしたちの前に立ちふさがります。そして最終的には、死にゆく肉体によって、最後の試みがわたしたちの前に現れます。

とはいえ、「試み」はそうと自覚しない限り単なる「通過点」にしかなりません。それがわたしへの「試金石」「試験」「チャレンジ」だと自覚すれば、いろいろなことをどのようにとらえてゆくか、少し変わってくるかもしれません。試みをネガティブな面だけで見るなら、それは決して喜ばしいものではなくなるでしょう。けれど、その「試み」が大切な次のステップの一歩なのだと考えることができれば、それが大切なものだと感じることも出来るでしょう。

わたしたちの生活は、そのようなもので満ちています。良いものであれ、あまり好まない事であっても、それぞれを心から受け入れることができるなら、たとえ「悪魔からの誘惑」であったとしても、それをよいものと変えてゆくことができるのではないでしょうか。イエスが、みことばによって悪魔を退けられたように、わたしたちも「みことば」によってこの世界のすべてをより良いものに変えてゆけるのではないかと思います。


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3月13日 四旬節第2主日 
ルカ9章28b~36節


彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。(34~35節)

この世のものとは思えない出来事に、弟子たちは「恐れ」ます。聖書の中で「雲」は神の顕現に伴うものですので、言うまでもなく、ここで聞こえる声は御父からのものです。このことばはイエスの洗礼の時に天から下ってきた言葉を思い起こさせます。(ルカ三章二十二節)わたしたちが今歩んでいる四旬節は、イエスの死と復活、過越しの神秘に向かう歩みです。それはイエスとともにわたしたち自身を十字架に着け、死んで復活するための歩みです。簡単なことではありません。イエスとともに歩むというのは、とても困難な道です。わたし自身、信じていることがよろこびだけであるとは言えません。本当は、どんな辛いことがあっても、イエスとともに歩んでいく喜びを感じることができるはずなのですが、わたしの弱さと愚かさは、歩みが困難なものだと勘違いさせてしまいます。どんなにイエスが大切で、大好きでも、自分の愚かさのために躓き倒れてしまうのです。平気そうな顔をしていても、心の中でイエスを裏切っていることもあるのです。けれど弱いわたしを助けてくださるのも、またイエスだけなのです。

 人間が自分だけで満ちたりていると感じてしまうとき、弱さがそこにあることに気が付くことができるよう、神の顕現の場面でも、「イエスに聴く」ことだけを頼りにしてゆけますように。


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3月20日 四旬節第3主日  
ルカ13章1~9節   


あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。(3節)

「悔い改め」なければ滅びるのでしょうか。「滅びる」ということは、地獄に行くことなのでしょうか。

神様は本当に善なのに、どうして地獄があるのでしょうか。神様は人間の一人すら、滅びることを望んではいません。滅ぼすつもりはないのです。ではなぜ「滅び」があるのでしょうか。

滅びること、それは神様のいのちにあずかることができない、というより、そのいのちを拒否してしまうことなのだとわたしは思います。地獄というのは、神様のいのちのない状態、神様を拒否した状態なのだと思います。だからそこは「神無き世界」なのです。神様は、拒否したもののそばにはいらっしゃらないのだと思います。全知全能であっても、神様を拒否する状態を乗り越えることは「出来ない」のだと思います。それはその状態を人が選んでしまうからです。

滅びということは、人間が全く神様を拒否してしまうことでしょう。それは人間が望んですること、つまり、自分には神様は必要ないのだ、と考えてしまうことだからです。現代社会の多くの人は、そんなことを考えてはいないのでしょうか。いいえ、意識していなくても、そういう思いにとらわれている人はいるかもしれません。自分の力だけ、自分の能力だけでこの世を渡り、成功を手にし、何も不足することがない、と考えている人がいるのではないでしょうか。どんなに成功を手に入れても、その成功は生きている間だけなのに、また、どんな不幸に見舞われたとしても、神様はその人を見放したわけではないのですが、その両方とも信じられない人がいます。キリスト者はそのこと、つまり神様が本当にすべての人をご自分のいのちに招いていることを、もっと声高に宣べ伝えてもいいと思います。

どこかそのことを宣べ伝えるのに消極的なわたしたちは、神様の愛に信頼を置いていないのでしょうか。それとも、信じてはいるけれど、何か、まだ不足していることがあるのでしょうか。自分の信仰が不足している、と感じていないでしょうか。神様への応答が、自分のこの状態では不十分だと考えてしまうのではないでしょうか。「十分だ、自分は完全に神様に応えている」と感じている人はいないと思いますが、不十分な自分を自覚し、どこか腰が引けているようなのではありませんか。十分な、完全な信仰を極めようとしても無理なことです。不十分なわたしは、不十分なままで、神様の前に立って、信じているのです、信じていたいのです、というよりほかにないのかもしれません。その時にこそ、不十分なりに頑張って生きたことを見つめなおしてゆくことができるのではないでしょうか。



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3月27日 四旬節第4主日  
ルカ15章1~3,11~32節  


「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(24,31節)

ルカ十五章のテーマというべき「いなくなった(見失われた)」という言葉に、わたしたちは何を感じるでしょうか。いなくなったことは、自分の責任なのでしょうか。「見失った羊」は、群れにいたくなかったから、どこかに行ったとも考えられますが、ただ、道をちょっと間違えただけかもしれません。「なくした銀貨」は、銀貨の意思はないので、持ち主の不注意で失われたのでしょう。

けれど「放蕩息子」は、ヒツジや銀貨とは違って、自分でものを考え、意思を持って父親のいないところに行きました。それは父親から見れば、「いなくなった」「死んでしまった」「見つからない」ことなのですが、息子のほうからは、自分の意志で決めたことと考えていたかもしれません。だからこそ、「父にのもとに帰ろう」と考えるのは、行き詰ったからだと思いますが、行き詰らなかったなら帰らなかったもしれません。そこには「自分の意志」というものがまつわりついています。彼は本当に自分の考え、意思、思いでそのように行動したのでしょうか。

 わたしたちは「自分で決めている」と考えていながら、人の考えや、世間一般の「常識」「思惑」「価値観」にとらわれ、自分の行動を「決め」られているような気がします。世間一般の評価、みんながしているから、多くの人がほめているから、刷り込まれた価値観はそんなに簡単には消えません。一人一人が、自分と神様に問い直して、決定していることはどれくらいあるのでしょうか。

この弟息子も、楽しい贅沢暮らしがいいものだと刷り込まれ、放蕩したのでしょう。財産がなくなってしまえば困ることはわかりきったことであるにもかかわらず、そのような考えにとらわれてしまっていたのです。人間の考えには限界があります。たくさんの人の意見を聞き、考えて行動すべきですが、それを決定してゆくのに、周りの人、世間一般の価値観に振り回されないようにしたいと思います。自分に立ち返るとき、一般的な価値観ではなく、父の心に気が付いたように、私も御父の心に気が付けるように、振り返りつつ歩んでゆきたいと思います。


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