主日の典礼 2022年

11月6日 年間第32主日   
 ルカ20章27~38節

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。(38節)

復活とは何か、というのが今日の福音の中で論じられています。「復活」とは単なる「生き返り」「よみがえり」なのではなく、「神のいのちに生きること」なのです。ですから、「嫁ぐことも、娶ることもない」のです。つまり、結婚して子供を残すのは、人生が限られた者であり、死という現実に対応するからなのです。

ですから、死がなくなった場合、結婚することも必要ありません。全く違ういのちに生きているからです。

とはいえ、わたしたちキリスト者もともすれば、このような復活の考え方を忘れてしまいます。特に、「死んだらどうなるのか」、ひいては「罪を犯した人は地獄に行くのだ」というような前提で、わたしたちのいのちの領域を狭めてしまっていることがあります。

 イエスの復活によって勝ち取られた「永遠のいのち」「復活のいのち」は、わたしたちの想像をはるかに超える偉大な、ダイナミックな、本当の生きたいのちであるはずです。わたしたちが、本当に生き生きと生きられるために、イエスはその命によって、わたしたちを御父のもとへと導いてくださっているのです。子の救いの喜びをとことん味わい尽くし、イエスの愛に応えたいと望むこと、これがわたしたちを真実、生かす原動力であるようにしたいものです。


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11月13日 年間第33主日  
 ルカ21章5~19節

貧しい人のための世界祈願日


わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。(17節)

信仰によって差別され、迫害を受ける社会がまだ世界にはいくつもあります。日本でも表立っての迫害はなくても、社会における価値観は、教会のそれとは違っているために、信仰に生きようとすると、いろいろな矛盾や生きにくさを感じることがあります。以前「福音宣教推進全国会議」というのが開かれました。おそらく1987年くらいでしたので、30年以上も前のことになります。  
そこで言われたのは「信仰生活と社会生活の遊離」でした。古い話で、申し訳ありません。でも、現在も実情は少しも変わっていないようです。

社会で働いている間は、社会の「常識」に包まって生きなければ、生きにくいから、そのような生活になり、リタイアしてから、教会に通うようにしよう、とか考える人もいるかもしれません。信仰を持つと生きにくいから、子供には洗礼を授けることにちゅうちょする、という両親もいるかもしれません。コロナ過で教会共同体の活動も沈滞し、福音宣教もムリムリ、とか考えてはいないでしょうか。

イエスの今日のみことばは、本来の信仰生活とは、苦しく、実りなく、迫害と死にさらされたものであると宣言されているようです。誰が憎まれるような道を歩きたいと思うでしょうか。それでも、イエスの教えと、社会の常識が対立するときは、イエスに従いたいと、一生懸命考えます。だからこそ、憎まれ迫害されるかもしれなくても、イエスに従うというこの一点に集中する勇気と力をいただけるように、日々の生き方を今一度見直してゆかなければならないのだと思います。


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11月20日 王であるキリスト 
ルカ23章35~43節

世界青年の日


イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(43節)

 イエスは十字架上で、多くの人からあざけりを受けます。「自分を救う」ことすらできない人間が、どうして救い主であろうか、というのがあざける人々の観点です。わたしたちはどうなのでしょうか。イエスに、十字架から降りてきてほしいと望むときはないでしょうか。

自分の病気や苦しみ、近しい人の痛みや苦しみ、死や別離、理不尽な世間に対する怒り、戦争や抑圧によって苦しむ多くの人びとのことを聞くときに、「神様、なんとかしてください」と祈ってしまいます。もちろん、このような祈りは正しく、心からの叫びであるはずです。

けれど、神様に自分勝手な解決だけを求めてしまうなら、それは神様、イエスを十字架から降りてきてください、と望むことではないかと思います。二つの陣営があると、どちらか一方だけが悪い、と考えてしまいがちです。悪いこと、罪を犯した人を断罪するのは簡単ですが、その奥にある様々な事情をわたしたちは知ろうともしません。キリスト者も過去には様々な過ちを犯し、教会も多くの過ちにまみれた存在であることを皆様もよく知っておられるでしょう。

この世界に絶対がないということを、人間である自分の考えには限界があることを、今一度確かめ、そして、神様のみ手にゆだねつつ、祈りを捧げてゆきたいと思います。


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11月27日 待降節第1主日  
マタイ24章37~44節   


 「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(44節)

まだ来ない、いや、来る、もう来ないかも、等々、わたしたちが待つものは、何でしょうか。期待が多きければ大きいほど、それを待ち望みますし、「来る」「来ない」、「かなう」「かなわない」で心と感情は揺さぶられるかもしれません。わたしたちが本当に待ち望むもの、それが何であれ、来てほしいと思うなら真剣に願うでしょうし、もし来てほしくなければ、それが来そうで来ない時には、ドキドキして、恐ろしくなるかもしれません。

さて、イエスが言われる「人の子が来る(来臨)」とは一体何なのでしょうか。イエスは歴史のある時期に(約二千年前)、イスラエルの世界に「来られ」ました。そのイエスが、もう一度「来られる」ことを、初代教会の人々は「主の再臨」(ギリシア語でパルウシア)と呼び、待望していました。彼らは、もうすぐにイエスが来られると期待しつつ待っていたのです。イエスが栄光に包まれてこの世界に「再臨」し、この不自由な体と世界から解放し、救われると信じていたからです。

  来られる方は、実は、戸口に立っているはず、なのですが、わたしたちはちっともそれに気づいていません。実は、待っているのは、イエスではないでしょうか。わたしたちが振り返って自分のほうを見つめてくれるのをイエスは「待って」おられるのです。

わたしたちは主の存在、たたずんで、息をひそめて待っておられる主の存在にどれくらい気が付いているのでしょうか。



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