主日の典礼 二〇二二年

一月一日 神の母   
ルカ二章十六~二十一節

マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。(二章十九節)

あけまして、おめでとうございます。今年も皆様と一緒に、みことばの旅を続けてゆけることを感謝いたしております。この新しい年、皆様御一人御一人の上に、神様の豊かな祝福と光がありますよう、お祈り申し上げます。

一月一日は、教会では「神の母聖マリア」の祭日です。一年の初めを、マリア様と共に過ごすことは、とても大切なことだと思います。「神の母」と言い慣わされてきたこのマリア様の称号は、実はとても大切なものでした。初代のキリスト教会では、マリア様を「神の母」と呼ぶかどうかで、大変な議論がなされたのです。聖霊の助けと多くの人びとの真剣な議論によって、イエスの母であるマリア様は、「神の母」であることを公に宣言されました。現代日本に住むキリスト教徒の一人としては、その言葉の問題がそんなにも大きなことかと思ってしまうのですが、その当時も、そして今も、教会はマリア様を「神の母」(テオトコス)と呼び、崇敬を捧げます。


このように呼ばれるマリア様が偉大なのは、自分で何かをなさったとか、奇跡を起こしたとか、ではなくて、神のみ旨を信じ続けた一人の女性であったことだ、とわたしは感じます。たくさんの人がイエスの奇跡に、教えに、行動に心を打たれてついてゆきました。けれど、十字架までついて行ったのは母マリアと使徒ヨハネ、婦人たちでした。上り調子の人には、もてはやす人はたくさんいますが、一度落ち目になると手のひらを反すように、人々は離れてゆきます。マリア様はイエスが自分の息子だったからというのではなく、神のひとり子であり、キリストであるということを信じ続けてきたからこそ、そのあとに従い続けたのです。神の母であるということは、息子の人間性を知りながら、その神性を信じるというむつかしいチャレンジに応えることだったのではないでしょうか。この難しい社会で、たくさんの母親が、子供たちのために苦しんでいます。また、母親のために苦しんでいる子供たちも存在しています。苦しみ悩む親子のため、祈り続ける母マリアに信頼し、この一年を捧げることができますように。


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一月二日 主の公現  
マタイ二章1~十二節


イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(一~二節)

 遠い地方からやって来た占星術の学者たちは、何のために行動したのでしょうか。


人間は行動するとき、何かの目的や理由をもって行います。人生の大きな方向づけ(根本的な選択と呼ばれます)は、何か、大きな理由や、招き、渇望がその方向を決めることになると思います。とはいえ、実際は、そのような選択をしたと後から気が付くこともしばしばです。特に若い時は、あまり考えないで、行動を起こしたり、簡単に決めたりして、あとで後悔することもあるかもしれません。また、現代社会のように、次から次へと達成目標を押し付けられる場合、選択「する」のではなく、「させられている」ように感じてしまうのではないでしょうか。今の若い人たちが自己肯定感を持てないのも、「もっと、もっと」と押し付けられ、目標を置かれ続けているからかもしれません。


 実際、わたしが若いころとは全く違った世界観で、現代の若い人たちは考え、行動させられているようです。それがすべて悪いものであるとは言えません。けれど、今の社会は、自分が選んだことを本当に受け入れてもらえる社会でしょうか。選択することも出来ず、どうにかして、人の期待に応えようとあがく子供たちを見ていると、本当に苦しくなります。上手に世間を渡っていくばかりで、本当の大切なことに気が付かない人も多いのではないでしょうか。それでも、みんなどこかであがき、なやみ、探しています。

 占星術の学者たちも、世間からは「偉い人」「立派な人」と見られていたり、「異教の魔術師」などとさげすまれていたりしたことでしょう。けれど、彼らは、星を見つけて行動しました。わたしたちも「星」を見つけなければならないのです。その下にイエスが存在している「星」を。


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一月九日 主の洗礼 ルカ 
三章十五~十六、二十一~二十二節


イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。(二十一~二十二節)

ルカによる福音では、イエスはしばしば祈っておられます。今日の洗礼の箇所でも「祈っておられると」とあるように、重要な局面でイエスは祈りを捧げます。


 イエスの祈りは、聖霊が下ってくることと結びつけられているようです。イエスは受洗され、そこに聖霊、神の認証が起こります。神の介入という重要なことを、ルカは祈りの後に起こった出来事として語りました。ルカによる福音で、祈りが、特にイエスの祈りが大変重要なものとしてとらえられているのがわかります。イエスが洗礼の場面で祈っておられたと記すのは、ルカだけです。

わたしたちも、祈りの重要性を知っていると思います。様々な場面で祈り、願い、神に信頼した祈願を捧げていたと思います。とはいえ、イエスの祈りのように、目に見える形で聖霊が下ったり、神様が直接話されたり、ということはまずないことだと思います。(そのような体験がある方がいらっしゃった場合は、申し訳ありません。)けれど、だれもが、祈り続けて、その祈りが無駄だったり、空しかったりしたことはないのもご存じのことです。

祈りは不思議です。わたしにとって祈りは、神様の前に、くどくどといろんなことを並べている繰り言にも似たものです。また、いろいろな願いを必死になって祈ることもありますが、多くは大変自己中心的なことです。ですから、自分の祈りを口にするときは、とても気を遣います。自己中心的な祈りは、あまり良くない、と自分では思っているからです。

けれど、よく考えてみると、イエス以外の人間の祈りとは、たいてい、自己中心的なものです。世界平和のため、難民のため、苦しむ人々のため、と祈っていても、漠然とした祈りには、なぜか力が入りません。(そうでない人もたくさんおられるかも……)自分の両親のため、姉妹会員の病気回復のため、困ったことが起こったときの解決を願い、難しい人との関係回復を願い、自分のゆがんだ性格の改善を願います。こんな祈りは無駄なのでしょうか。そうではないと思います。祈りは神様を意識し、神様に話しかけること。親しければ親しいほど、いろんなことを喜びも、悲しみも、苦しいことも、うれしかったことも、みんな話すのが親しい人との関係です。神様はきっと、そんな関係を喜んでくださるはずです。とはいえ、あまりにも自分勝手なことを願うと、それは、自分でもちょっと辟易してしまうのではないでしょうか。本当は喜びの分かち合い、感謝の報告、豊かな時を分かち合うときでありたいと思います。


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一月十六日 年間第二主日  
ヨハネ二章一~十一節   


ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。(三節)

今日の福音は、「カナの婚宴」の場面です。笑い話で、この婚宴の席でぶどう酒が足りなくなったのは、イエス様と弟子たちがたくさん飲んだからだ、とか言われます。どちらにしても、宴会の途中でぶどう酒が足りなくなるのは、あまり縁起の良いことではありませんし、招いた人々に対しても恥ずかしいことになります。このような時、現代であれば、すぐにお店に行ってということになるのでしょうけれど、イエス様の時代にはお店などないし、大量のぶどう酒などすぐに手に入るはずがありません。マリア様もそのところをよくわかっていたはずですから、イエス様に「ぶどう酒がなくなりました」というのは、本当はおかしなことだったはずです。マリア様のこのことばには、イエス様なら何とかしてくださる、という全幅の信頼が見えます。

そのような信頼を見せられたイエス様は、一見断りのような言葉を発しますが、そのあとの行動は、わたしたちの想像をはるかに超えた素晴らしいものでした。

マリア様のイエス様への信頼こそがこのぶどう酒の奇跡を実現させたのです。奇跡は、見えるしるしです。それ自体は素晴らしいことですが、それを受け取る人によって意味あるものとなるのです。水がぶどう酒に代わったことは、それはすばらしいことですが、本当は、一年以上の時間をかければ、奇跡は起こっているのです。畑を耕し、ぶどうの実が生るように、せっせと水をやると、収穫したブドウは、ぶどう酒となります。これも水がぶどう酒に変わったことになるのではないでしょうか。

イエス様のなさった奇跡は、多くの人を喜ばせました。そして、それを見た人々に、神様の素晴らしい恵みを受け入れ、思い出させ、感謝するものとなりました。奇跡が本当に行われたのは、ひとりひとりの心の中に、イエス様を信じ、御父を信じる、ということを芽生えさせたからなのです。



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一月二十三日 年間第三主日
(神のことばの主日)  
ルカ一章一~四、四章十四~二十一節  


「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。」(四章十八節)

神の民、キリスト者として宣教の使命を受けていることを、わたしたちはどれくらい意識しているでしょうか。

毎日の生活の中で、ともすれば信仰生活と日常生活、という二つに分けてしまっている自分がいるのではないでしょうか。この二つは、本来分かたれるものではないのですが、教会に行っているときは信者で、日常働いているとき、信仰は関係ないとなってしまいがちです。生活の中で神を見出すことの難しさは、どんな方も感じたことがあると思います。

 イエス様や洗礼者ヨハネのように、日々の生き方が、そのまま神様のみ旨を果たす生き方になっているのなら、本当に素晴らしいことです。けれどわたしたちは、日常のすべてのことを信仰の目で見ることが難しいと知っています。なぜ難しいのか、と考えると、現代の日本の社会は、福音とはまるでかけ離れた様子を呈しているからでしょう。教会で話されることは素晴らしい、教皇様のことばももっともだし、本当にその通りだ。でも、毎日生きてゆくためには、そんなことばかり言っていられない。毎日大変だし、それを乗り越えるためには、少しくらいの気晴らしは許されていいはずだ、福音宣教も大切だけど、わたしは教会で祈ることに専念しよう……。そのような考えがわたしたちを閉じ込めてしまいます。

教皇フランシスコは、わたしたちに扉を開け、人を招き入れる教会、人を探しに行く教会になりなさい、と言っておられます。御父と御父が遣わされたイエスと洗礼者ヨハネは、主の霊を受けたこと、遣わされたことを深く深く自覚し、そのように行動することができました。わたしたちは、ずうっとは無理かもしれませんが、少しでも、日常の瞬間瞬間を神様の方へ顔を向け、心を開き、隣の人を受け入れることができるように、主の霊を送ってくださいと祈り続けましょう。


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一月三十日 年間第四主日  
ルカ四章二十一~三十節    


「この人はヨセフの子ではないか。」(二十二節)

イエス様が故郷のナザレに変えられた時のことが、先週に引き続いて読まれます。会堂の中でのイエスの素晴らしい言動に、人々は驚き、ほめそやしましたが、「この人はヨセフの子ではないか」ということばも聞かれます。

つまり自分たちの知っている「あのイエス」、「あそこの家にいたイエス」、「自分たちが世話をして大きくなったイエス」、「自分たちの仲間だったヨセフの息子イエス」、「一緒に遊んだイエス」、「一緒に仕事をしたイエス」という具合に、人々の心は様々な憶測と記憶とが一緒になり、イエスの姿をきちんと認めることができないのです。

ことです。「あの人」のやることは気に食わない、「この人」はいつも同じで変わろうとしない、などと、自分の偏見と自意識が、相手の本当の姿を隠しています。 もっと良いところを見ることができるはずなのに、そうすることも拒否してしまう、心の鈍い、生ぬるいわたしです。そんなわたしの前をイエスももしかしたら「通り過ぎて」行かれたのかもしれません。残された者は、あっけにとられ、関わり合いを断とうと考えてしまいます。実のところ、神様の愛から離れたのは、自分の方なのですが。

このように、偏見をもって人を見ることは、愚かなことである、とわかっていることです。それなのに、わたしは自分の考えから解き放たれることを良しとしていません。自分の考えにとどまっていれば、ほかの人を批判していれば、それで自分が安泰なのだと思っているからです。このような考え方にとらわれているわたしを、主よ、開放してください。


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