主日の典礼 2021年

7月4日 年間第14主日  
マルコ6章1~6節

「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。」(2~3節)

様々な事柄を偏見なく受け入れたいと思います。けれど、どこかしら自分の意見が入ってしまいます。自分が見ること、感じることが、事実に反映されて、ゆがんでみてしまうことが多いのではないでしょうか。

 ですから、事実と真実は違うものです。「事実は真実の敵なのだ」ということばを聞いたことがありました。真実と真理は、事実に反しているものなのかもしれません。分かったつもりになって、早々と判断を下したり、決めつけたりすることはままあることです。それが本当に正しいのだろうか、と疑うことはありませんか。誰かの意見をうのみにしたり、自分が知りえた一片の情報だけで全体を判断したりすることが本当に多いのではないでしょうか。

そのような経験を繰り返しているのに、いいえ、繰り返すからこそ、わたしの感性は固くなり、物事を柔軟にとらえることができなくなってしまっています。何度もやったことだから、いつものことだから、あの人はいつもこうだから、こういうことばかり繰り返し、判断を誤り、それが真理から私を遠ざけているのでしょう。反省はしても、また同じことの繰り返し。姉妹や隣人を判断するとき、自分勝手な思いで断罪しているのですから、わたし自身もそういうふうに決めつけられているのに気が付かないでいます。

「決めつけられたくない」「わたしを型にはめないで」と言いたいのが自分の本音なら、他の人たちにも型にはめることなく、いつも新鮮な、まっさらな気持ちで対峙してゆかなければと思います。けれど、それはとても難しいことで、柔軟さを保つことは困難です。イエスを知っていたナザレの村人たちのように、「あの人はああだから」と決めつけることがないように、いつも柔らかなあたたかい心を保ちたいと、本当に願っています。


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7月11日 年間第15主日 
マルコ6章7~13節


(イエスは)十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。(7節)

イエスが使徒たちを遣わす時、ひとりずつではなく、二人一組で派遣された、と今日の福音は語ります。二人組というのは少し難しいと思います。仲良しなら、良いのかもしれません。とはいえ、長い道中、いろいろなことで違いがあらわになり、意見が異なり、好きだったもの同士でも仲たがいしたり、互いに折れずに、喧嘩になってしまうかもしれません。仲が良ければ、それが解消されるかと言えば、一度こじれた関係は、なかなかうまく修復しないかもしれません。宣教という重要な使命を果たすのに、仲が悪い二人では効率も悪いのではないでしょうか。

イエスの宣教を担う使徒たちの活動は、単純なものではなかったはずです。福音ではこの記述の後、すぐに意気揚々と帰ってきた使徒たちの姿が描かれていますが(6章30節)、本当はそんなに簡単なものではなかったでしょう。イエスの復活の後、パウロが使徒として各地を巡った様子を使徒言行録は書きますが、それはとても困難な旅であったことが記されているのは、皆さんも読んでおられると思います。使徒として宣教するというのは、このように苦しく、つらい旅を続けることでもあったのです。もちろん、多くの人の回心に出会い、福音が受け入れられる喜びもあったでしょう。けれど、同じくらい冷笑や迫害、争いと惨めな思いもあったことでしょう。それらすべてが宣教という活動につきもののことでした。

わたしたちも知っているように、日本の宣教も多くの外国からの宣教者に担われていました。修道会や宣教会の多くの司祭が、その生涯をかけて日本の社会と人々のために福音を伝えてくださいました。現代の日本の教会はそのような多くの人びとの奉献によって支えられていたのです。とはいえ、ヨーロッパのキリスト教は衰退し、召命も減少して、日本に送る人はいなくなっています。日本の教会は今まで(今もかもしれませんが)、このような宣教者におんぶしてきたのです。それは、教会にとってそこに安住していれば自分の救いは大丈夫、といった消極的な態度をとらせていたことになっていたのかもしれません。けれど、今、わたしたちは教皇様のことばに従って、一人ひとりが宣教の使命を果たすよう招かれています。人に頼っていては、救いは地のはてまで広がるはずもなく、わたし自身の救いさえおぼつかないものになってしまいます。

派遣された自覚、宣教の難しさを味わいつつも、それを超えた喜びと恵をわたしたちも体験してゆけますように。


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7月18日 年間第16主日 
マルコ6章30~34節


イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。(34節)

マルコの福音では、弟子たちに対してとてもクールな視線が注がれています。イエスの叱責やいきどおり、嘆きが弟子たちの無理解と驕りに対して幾度も繰り返されています。「まだわからないのか」と嘆かれるイエスに対して、弟子たちは先生の焦燥が理解できないかのようです。

イエスは常に、多くの人びとが苦しんでいる様子を黙って見過ごすことができないでいます。どんなに自分が疲れていても、必要に応じて、素早く対応するイエスの行動こそ、わたしたちは見習わなくてはならないでしょう。苦しんでいる人、なやむ人、悲しむ人にそれぞれ真剣に向き合うこと。それは簡単なことではありません。自分が何をすればよいのか、わからない時があります。関わりづらい相手と長く話し込むことで、疲れ切ってしまうこともあるでしょう。理解することが難しい人との対話、精神的に病む人、また、肉体的に病んでいる人など、わたしたちが手に負えないこともたくさんあります。それどころか、わたしたちこそが、相手をしてもらいたいと誰かを探し、希望を見出せない時もあるのです。

 弱い人間は、一人ではたっていられません。人と人との関わり愛が難しい現代社会、また、関わりを絶たれてしまう現代の日本の状況を、どのようにして乗り越えていったらよいのか、わたしたちにはわかりません。どちらかと言えば、対処療法、その時その時を一生懸命考えて対応していくしかないようです。

わたしたちは一人ひとり弱く貧しいものです。イエスと聖霊に支えられ、御父のみ旨を考えながら、手探りで歩いていくより仕方がないのですが、それでも、希望を失うことなく、力強いイエスのことばに信頼したいと考えるのです。


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7月25日 年間第17主日 
ヨハネ6章1~15節  


「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(9節)

イエスの「パンの奇跡」は共観福音書、ヨハネ福音書ともに描かれている重要な場面です。最後の晩餐、聖体の秘跡に連なる重要なものなのですが、わたしたちはこれをどのように読み取ればよいのでしょうか。

十分に食べる、ということは人生の大きな課題です。現代日本の中でも、十分に食べられない人々が多く存在します。わたしたち修道者は、毎食きちんと調理されたものを共同体の食堂に行っていただくことができますが、時間も不規則、ファストフードやコンビニにおにぎりで食事を賄っている人も多いでしょう。「子ども食堂」が話題になってから、全国でも多くの活動がなされていることはご存じのことでしょうし、宗教や主義主張を超えて、「食べる」ことに対する重要性を強調する人も多くなりました。

 もちろん、「食べる」だけでは人間は生きていけませんが、「食べる」ことなしには、生きてゆくことが難しいのです。多くの人が「食べる」ことだけに必死にならざるを得ないという状況は、ゆがんだものなのです。一人ひとりが十分に食べ、快適な暮らしを行えてこそ、人間の尊厳をどうのこうの、政治や宗教、哲学や思想をどうのこうの、と言えるのかもしれません。だからこそ、イエスの「パンの奇跡」を体験した人々がイエスを「王にしよう」としたのも無理はないかもしれません。イエスのこの力があれば、全世界の飢えている人が満たされ、もう飢えることはない、と感じたからでしょう。

けれどそれは人間の勝手な考えです。ちょっと立ち止まって考えてみればわかることなのですが、食べ物が十分になったら、着るもののこと、そして住む場所のことを考えるでしょう。それから先は、明日のために蓄えを持つことが当然になり、それは次第に貧富の差を生み出すことになるのです。

人類が社会生活を始めるようになってから、人間は自分の生きるすべ、快適な生活を求めて働き、切磋琢磨してきました。すべての人が平等で、貧富の差もない世界というのは、まだ実現していません。戦争や争いのない世界も、平等な世界も現実には存在できていません。だからと言って、その夢と希望を捨て去ることはできないように、イエスの「飢えることのない永遠のいのち」の世界を求める心は常に保つべきです。決してそれがこの地上では(わたしの生きている間)実現はしない、とわかっていても、その希望が明日叶うかもしれないと信じつつ働いてゆくのです。

イエスのパンの奇跡は、このような希望を持ちつつ、絶望に陥っても仕方のない人々に差しだされています。希望のないところに希望を、まったく何もないところに、見た目は無とほとんど等しい「5つのパンと2匹の魚」を差し出そうとした勇気ある少年のように。



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