主日の典礼 2021年

6月6日 キリストの聖体  
マルコ14章12~16、22~26節

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」(22節)

イエスの動作と言葉は、わたしたちに自分のからだを差し出すものです。彼は「パンを裂き」「与え」「取りなさい」と言われます。

 「パンを裂く」ことは、引き裂き、それまであった形を崩して、バラバラにすることです。柔らかい食パンでも、固い全粒粉のフランスパンでも、裂くとパンくずができるし、元の形とは違ったものになります。普通、わたしたちが大きなパンを皆で分ける時、パン切包丁で切ると思います。その方が見た目もきれいです。当時はナイフもなかったのかもしれませんし、パンという「神様からのたまもの」に金属の刃をあてることはふさわしくなかったのかもしれません。ですからイエスがパンを裂いたのは、ふつうのことだったかもしれないのですが、わたしにとっては、「裂く」という動作があまりにも荒々しく、力任せの行為のように感じられるのです。

ミサは、聖体祭儀は「晩餐」を繰り返すことではなく、イエスの十字架上の奉献です。イエスが今まさに十字架上で苦しみ死ぬことこそが奉献そのものなのです。わたしたちもイエスとともに自分の痛みを、そして自分自身を裂きくだいてイエスとともに御父に奉献するのです。わたし一人ではそのような奉献すらできないことなのですが、イエスとともにあるからこそ、その厳しい痛みと苦しさを「裂いて」奉献できるのです。それを忘れないことが、聖体祭儀に真剣にあずかることではないかと思います。


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6月13日 年間第11主日 
マルコ4章26~34節


「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(30~32節)

「神の国」というイメージは、神様の支配する、幸福な、一点の曇りもない完璧な国なのでしょうか。

そのような完璧な国や世界は、お話の中ではいざ知らず、現実にはあり得ない、と思いませんか。

「神の国を待ち望む」と口では言いながら、実のところ信じていないところがあるのは、わたしだけでしょうか。

「神の国」を今、わたしたちが生きている世界の「国」やこの世の「支配」と考えてしまうからこそ、そこに無理があります。世界中が様々な痛みと苦しみにうめいているとき、わたしたちキリスト者が「神の国を求めよう」と言っても、ばかにされるのが落ちではないでしょうか。そうです。現実の痛み、苦しみ、差別、貧困、争い、嘆き、そして人間ではどうすることも出来ない天災やパンデミックなど、世界はあまりにも悲劇に満ちているので、神の国を考えるとき、どうして神様はこの現実をほおっておかれるのか、と考えるのではないでしょうか。

 昔から、神様は全能の方であるのに、この世界の苦しみはなぜあるのか、罪のない人々の痛みはどうしてなのか、という問いが繰り返しなされています。大災害(東日本大震災のような)が起こると、「なぜ、どうして」という問いが繰り返されます。神様はわたしたちに苦しみを与えるためにこの世界を作ったのか、と問われることもあります。

けれどキリスト者は、答えが出ない苦しみの中にあっても「でも神様は良い方です」と言うのだと思います。どんなに苦しくとも、また、痛みが大きくとも、神様は決して私たちを悪いようにはなさらない、ということが信じることだと思うのです。

だからこそ、イエスのたとえはわたしたちに語りかけます。「からし種」に例えられる神の国は、目に見えない物、けれど大きく育つものです。それは、わたしが何かするから大きく育つのではなく、「成長してどんな野菜よりも大きく」なるのです。神の国とは、わたしたちの働きではなく、すべて神の働きによるものなのです。だからこそ、わたしたちの絶望に向かいそうになる心を、神に向け、あえて、神の国、神に向かう希望を持ち続けることができると思うのです。


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6月20日 年間第12主日 
マルコ4章35~41節


イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。(38節)

イエスは近くにおられたのですが、弟子たちは、眠っているイエスに不安を感じて起こします。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という問いかけは、「何とかしてください」という嘆きとなっています。

嘆いても、文句を言っても何も変わらないことがあります。また、自分の置かれた状況に不満ばかり募って、どうにかしてくれと、外の力に訴えたり、放り出したり、現実から逃げてしまうこともあります。

 問題は何なのでしょうか。

わたしたちは、問題を外に見つけようとします。これがうまくいかないのは、あの人がいるからだ、とか、もっと能力のある人がいたら、とか、自分をここに置いた人のせいだとか、状況が悪くなったのは、○○のせいだ、とか。自分は悪くなく、一生懸命しているのに、うまくいかないのは、周りに原因があると考えてしまいます。

とはいえ、問題が出てくるのは、多くの場合、その状況を受け入れていない自分のせいだったりするのです。

もちろん、自分で解決できないことはいっぱいあります。けれど、問題を問題、厄介なこととしてしか見れないのは、自分のせいです。自分の立場を変えてみたら、その問題の本質が見えてくるのではないでしょうか。

眠っておられたイエスを、弟子たちは起こして訴えます。「嵐が起こるのは、あなたが眠っているせいです」とでも言いたいのでしょうか。「おぼれ死ぬかもしれないのは、あなたが何もしないからです」と訴えたいのでしょうか。イエスが眠っていても、起きていても、また弟子たちがうろたえても、ワーワー騒いでも、状況は変わらないのに、恐怖にとらえられている弟子たちにはそのことがわかりません。その状況を外から見ているわたしたちは、弟子たちのうろたえるさまを「だめだなあ」と思うかもしれません。けれど、いろいろな困難に会うとき、わたし自身のこんな様子だと思います。うろたえ騒ぎ、イエスがいないと探し回ったり、人のせいにし、切羽詰まって、祈りに逃げ込んだり。こんなわたしですが、イエスはわたしの愚かさと弱さに「黙れ、静まれ」と言ってくださっているのではないでしょうか。


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6月27日 年間第13主日 
マルコ5章21~43節  


イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。(30節)

病や貧しさ、人種や宗教によって、また性別によってなど、様々な差別と抑圧がこの世界に存在しています。一人ひとりが違う人間でありながら、それぞれが神様から造られたかけがえのない、たった一人の存在であることを頭ではわかっていても、実際にどんな人でも大切にしているかと言えば、やはり難しい、としか言いようがありません。

遠くの苦しんでいる人たちのことを想って祈ることはできても、隣の苦しんでいる兄弟姉妹のことを受け入れることができないでいるわたしです。

 また、病気や障害で苦しんでいる人々のことを知ってはいても、何の助けも出来ないでいます。差別や、抑圧に苦しんでいる人のことをテレビで見ても、「お祈りしなくては」と考えるのがせいぜいのわたしです。


今日の福音で、長い間病気に苦しんでいた女性は、本当にわらにでもすがる気持ちでイエスのふれたのでしょう。どんなに苦しくても、この病が「穢れ」にかかわるものであったため、家族や共同体と離れ、差別を受け、お金も無くなり、病気はひどくなる一方だったでしょう。彼女は本当に切羽詰まっていたのだと思います。何とかしてなおりたい、その気持ちが行動を引き起こし、それはイエスの力を呼び寄せ、からだがいやされたのです。

イエスは、思いもかけない力の発出に驚いたのでしょうか。そうではなく、イエスは病気が治った女性のからだの病だけでなく、心の孤独をも癒されたことを周りの人びとにも教えているのではないでしょうか。

病気がいやされて、共同体に戻ることができるために、この女性はまた祭司のところに言って手続きをしなければならなかったのでしょう。その過程は、いわば、女性の心を逆なでするものであったのではないかと考えます。現在でいう、モラルハラスメント、セクシャルハラスメントなどが普通だった時代です。男性中心の社会で、病気の女性は、治っても差別されたかもしれないのです。

病は癒されました。けれど彼女の不安は、もしかしたら、まだ大きかったかもしれません。そんな女性に「安心していきなさい」とイエスは声をかけるのです。イエスのことばだけが、彼女を本当に癒された者とし、前進できる力を与えたのです。

わたしたちは、病気が治れば、仕事がうまくいけば、お金がたくさんあれば、と単純に思いがちです。そんな単純な状況で、わたしたちは生きているわけではないのですが、短絡的に解決を望んでしまいます。そうではなく、わたしたちが望むべき本当のことは、神様のみ旨が行われますように、という点から出発することなのでしょう。



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