主日の典礼 2021年

4月4日 復活の主日 
ヨハネ20章1~9節

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。(1節)

復活祭、おめでとうございます。「キリストは復活された。アレルヤ」という復活祭のアレルヤ唱は、本当にわたしたちの喜びを表していると思います。キリスト者は四旬節の間、主の受難と苦しみを想い、様々な節制と犠牲、愛の行いに励んできました。その痛みや苦しさ、そして上手に主のいつくしみを表せなかったこと、やさしくなろうとしてもそうできなかった痛みを、今日捧げます。

 上手に犠牲ができればよかったのですが、自分なりの思いや欲望が噴き出て、まっすぐに主に向かうことができませんでした。やさしくできればよかったのに、自分の思いで人を批判してしまうことを繰り返しました。自分勝手さに固執すること、自分の感情だけを見てしまうこと、ほかの人のことも思いやることができずにいました。こんな貧しいわたしですが、主はその痛みを超えて復活してくださいました。

四旬節中の祈りや分かち合いが貧しくとも、主の復活は光輝き、年ごとに新しい輝きを増し加えています。昨年に引き続き、コロナ禍の中での復活祭となってしまいましたが、わたしたち一人一人の思いと痛み、喜び、悲しみを主はすべて復活の光の中で見るように招いてくださっています。

どうかすべての方々に、特に苦しんでおられる方、先行きの見えない不安の中にある方に主が光を持って訪れてくださいますように。マグダラのマリアは「暗いうちに」墓に走ってゆきました。たとえ全世界が闇の中でも、マリアの熱情を持ち続け、復活の主に出会うことができるよう、お祈りいたしましょう。


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4月11日 復活節第2主日
(神のいつくしみの主日)
ヨハネ20章19~31節


その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(19節)

主の呼びかけは唐突でした。「あなた方に平和があるように」それは先生であるイエスを失って不安で困惑し、先の見えない弟子たちへのことばです。

キリストは、このことばをわたしたちにも投げかけておられます。わたしたちも今、弟子たちのように、不安で、困っています。コロナの影響で、仕事をなくした人、収入が減った人々、生活が極端に苦しくなった人々がいます。海外に帰ることも出来ない移住者がいます。修道院や教会では、計画していたことが次々と中止になり、リモート会議やオンラインでの講演会などでどうにかしようとしています。

 教会に人が集まることができません。また、集まったとしても歌も歌えず、ミサの後でおしゃべりも出来ないでいます。高齢者を訪問することも、お葬式を共同体で行うことも出来ないでいます。また、多くの人はそんな状況に慣れて、これからもずっとこうだと考えているかもしれません。こんな状態が普通だと感じていることも、なんだか怖いような気がします。

 そんなわたしたちに主は語りかけます。「あなたがたに平和があるように」

平和はあるのでしょうか。イエスが復活されたので、平和はあるはずなのです。この平和は、戦争や争いがない、といった状態ではないのは明白です。この平和は、復活したイエスの与える平和、だれにも犯すことのできない平和、言い換えれば、イエスが御父と一致された状態、神の与える悠久の永遠の平和、いのちの充満、信仰・希望・愛をもたらすもの、人類の和解の時、神と人との一致の平和なのです。イエスの平和を意識し、どんな時にも、一人ひとりがイエスとつながっていくことによって、離れていても、会えなくても、一緒に集まれなくても、一つであることを意識することができるのではないでしょうか。


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4月18日 復活節第3主日 
ルカ24章35~48節


イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(36節)

先週の福音にもあるように、イエスは「平和(シャローム)」とあいさつされ、弟子たちの間に現れます。それは突然の出現で、誰かが訪問してきたとかは、まったく違うものです。

わたしたちも、食事の席や会議中にイエスがその真ん中に現れたとしたら、驚愕してしまうでしょう。日常の何気ない場所にイエスが現れるのですから、それはあまりに場違いなことと思わないでしょうか。

実は、イエスは今、この場所に、家の中に、道端に、学校に、職場に出現されます。わたしたちはそれに気が付かないでいます。やさしく美しい人や、お金持ちや、ここちの良い言葉を述べる人がイエスではないのです。イエスはわたしにとって、気に障る人であり、言われたくないことを言う人でしょう。あるいは嫌われている人、嫌がられている人だと思います。いわゆる「良い人」ではなく「嫌われている人」なのではないかと思います。

なぜなら、イエスはわたしたちの日常をひっくり返し、かき回し、まったく違う風に変える方だと思うからです。

わたし自身にとっても、修道院で何の変化もなく暮らしているときにこそ、イエスを探しに行かなければと考えます。教皇様がおっしゃられたように、扉を開き、傷つき倒れるような教会を目指すのは、わたしです。イエスを探しに出向いてゆくこと、心を大きく開くことをしなければなりません。そんなわたしの前にイエスが現れているのですから。


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4月25日 復活節第4主日 
世界召命祈願日  
ヨハネ10章11~18節  


わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(11節)

羊飼いとか牧羊とかは、現代の日本ではあまりなじみのないものです。特に都市にいる人にとっては、牧場も羊も牛も豚も「食肉」としてしか認識することはないでしょう。野菜やお米なども、それを育てているのを実際に目にすることが少なくなっています。わたしたちは豊かな食卓を囲んではいますが、食事と食物との関係は希薄になり、ましてや、生きて動いている家畜を見ることも触ることもなくなっています。

そんな現代の日本人にとって、イエスが羊飼いであるとはどのような響きがあるでしょうか。

羊飼いとは、羊の番をする人なのでしょうか。見張り番もありますが、羊の世話をする人という意味が強いと思います。インターネットで「羊飼い」を調べていたら、昨年放送された「日本の羊飼い(ひつじ牧場の持ち主)」の番組があったらしいことがわかりました。彼は二十年以上もかけて、多くの人をうならせるような羊(食用の)を育てていらっしゃるらしいです。口癖は「羊に聴く」「羊と相談」だそうです。(NHK 「プロフェッショナル 仕事の流儀」二〇二〇年十一月十日放送)番組を全部見たわけではないのですが、真摯に羊を育てていらっしゃる様子が伝わってきました。

「羊飼い」は羊を育てます。イエスの生きていらっしゃった頃も、現代でも、家畜を飼うのは、その肉を食べたり、ミルクを飲んだり、毛や皮を使うためです。畑を耕すため、物を運ぶために使う牛や馬もいます。そのどれにも共通しているのは、「命」を相手にしているということです。

わたしたちは普段この「命」を意識することもなく、肉を食べ野菜やお米を食べています。本当にお金さえ出せば食材だけでなく、料理も簡単に手に入る社会は、どこか「命」を見えなくしてしまい、それゆえにこそ「永遠のいのち」すら見えなくなってしまうのかもしれません。

食を大切にすることは「生きている命」を、そして「永遠のいのち」を身近にし、たいせつにするということなのだと思います。羊飼いであるイエスもまた、わたしたちを、いのちを大切に世話してくださっているからです。イエスがしてくださる世話、関わりを意識して、彼の言葉に耳を傾ける「羊」「いのち」として生きてゆけますように。



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