主日の典礼 2021年

3月7日 四旬節第3主日 
ヨハネ2章13~25節

イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(15~16節)

四旬節は、わたしたちの在り方を今一度見直す時です。イエス様が神殿の中でなさった行為が、それとどのように関係があるのでしょうか。

 わたしたちは、毎週ミサにあずかり、御聖体をいただくことを「普通」だと思っていました。けれど、昨年からのコロナ禍において、教会の中では様々な集会の開催ができなくなってしまいました。また、主日のごミサも高齢の方をはじめとして、「義務を免ずる」ことが言われ、わたしたちは寂しくも、家にとどまり(ステイ・ホーム)、イエス様のみことばにあずかって、教会共同体のために、また、世界のために祈っていることになりました。

二度目の緊急事態宣言が一月に出され、感染者は増え続けています。このような状態で、集会が出来ない、ミサが出来ないということが、なんだか当たり前になってきてはいないでしょうか。本来、信徒は集まり、みことばと聖体の食卓で心と体を養っていただき、世に出てゆくのですが、それができないまま、内向きに生きざるを得ない状態になっています。

教皇様の言われる「出かけてゆく教会」「門を開いた教会」「野戦病院である教会」を実践できないまま、わたしたちは何をすべきなのでしょうか。やりたいけれども出来ない、という痛みをおささげするよりないのかもしれませんが、それぞれの立場で、できることを少しでも行えたらと思います。

神殿で、怒って暴れたイエス様は、そのあとに来ることを意識しておられました。それは十字架の死です。暴れることによって、どんな危険が迫ってくるのか、イエスはよくご存じだったのです。それは今の社会においては、医療の最前線で危険を意識しながら、働いておられる方の「必死さ」でもありますし、さびしく孤独に耐えながら入院生活を送っておられる方の「忍耐」でもあります。あるいは、仕事を失い、明日の食べ物も、住む場所もなくなった人の「怒り」と「不安」かもしれません。

わたしたちは、今恵まれているなら、彼らの「必死さ」「孤独」「忍耐」「怒り」「不安」にしっかりと寄り添い、イエスとともに、神様の「愛といつくしみ」を信じて行動することができるのではないでしょうか。


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3月14日 四旬節第4主日
ヨハネ3章14~21節


真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。(21節)

真理とは何でしょうか。わたしの中では真理とは、丸い磨き上げられた球のようなものだと思います。

球はその中心から表面までは、すべて等距離なのです。歪みはありません。ある場所から、中心までが十センチメートルなら、どこを図ってもすべて十センチでなければ球とは呼びません。真理とは、このように、だれから見てもすべて同じようにとらえられるものではないかと思います。だから、だれが見ても、「真理である」と知ることができるのではないでしょうか。

 真理は、何よりもまず神様からの光によって、照らされます。真理そのものである神から生まれ、神そのものであるイエスもまた真理そのものです。真理は間違いのないことだけではなく、充満、希望、愛、知恵、意識をも含む広いダイナミックなものです。そんなイエスをわたしたちは知ろうと努力します。その時助けてくださるのが聖霊です。

 現代の社会には、様々な情報があふれていますが、その中の何が真理なのでしょうか。事実だけではわからない、真実のその向こうにあるゆるぎない幸福へと招かれること。キリスト教が伝える心理は、そのような幸福、真の幸福を示してくれるものです。それがイエスその人からくるのだと、わたしたちは知っています。

多くの人が不安な社会の中で、戸惑い、さまよっています。ともすれば、わたしたちもさまよい、行くべき場所がわからなくなることもあるかもしれません。

そんな時こそ、真理である方自身のことばと光を見つめなおしたいのです。


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3月21日 四旬節第5主日 
ヨハネ12章20~33節


一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(24節)

  「麦の粒は死ぬのではない、地に埋められて芽を出すのだ」と言われたことがあります。地に埋められることによって、死んでしまったかのように見えても、麦の種は、その中にある豊かさを見出し、目を出し、地上に伸びてゆくのではないでしょうか。それを「死」と結びつけることに抵抗があったのかもしれません。

ここでイエスが地に蒔かれた麦の種のことをおっしゃるのは、イエス自身の「死」のことと関連付けておられるのだと思います。イエスが十字架につけられて死ぬことは、「死」で終わることなのではありません。十字架の死を超えたその向こうに、神が何を用意しておられるのか、ということなのです。

それはイエスの死についてだけ言われているのではありません。わたしたちの決定的な時についても言われているのです。イエスが死ぬことは、多くの「実を結ぶ」ことになるということ、それこそがキリストの復活であり、わたしたちの「永遠のいのち」への確信なのです。

四旬節中、わたしたちはイエスの受難を黙想し、十字架の道行きをしばしば行います。それは死で終わる十字架の道行きではなく、最後に「イエスの復活」の場面があります。イエスが死に打ち勝たれた、という確信を常に持ち続け、地に蒔かれた種のように、イエスの死と復活こそが、すべて彼を信じる人の「永遠のいのち」の保証であることを、この四旬節のクライマックスに当たって、深く黙想できますように。


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3月28日 受難の主日  
マルコ15章1~39節  


三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(34節)

四旬節の第一主日は、イエスの荒れ野での誘惑の場面ですが、マルコ福音書はその詳しいことを記述していません。わたしたちは、マタイ福音書とルカ福音書で、その誘惑の様子を知ることができますが、マルコはそんな詳しいことはまるで無視をしているかのようです。

ずいぶん昔の話ですが、ローマで勉強させていただいていた時、復活祭前の一週間を大黙想に充てさせてもらったことがありました。共同体を離れて、海の近くの黙想の家で行われた心霊修業は、主の受難と死を深く味わう機会となりました。

 特に、イエスの受難の黙想は、自分がそこに居たらどうするのか、という課題が与えられました。群衆の中の一人として、自分を見つめなおした時、その喧騒と、混乱と、絶望はわたしを覆いました。どうしたらいいのかわからない不安と、すべての希望が失われたような思いがありました。それでも、わたしにとっては、イエスの受難と死は、「復活」があるという前提で理解されていますから、それを知らなかった当時の弟子たちや、イエスに付き従っていた婦人たちの嘆きは、どれほど深かったことでしょう。

当時のパレスチナは、現代の日本とは比べ物にならないくらい暗く、ごちゃごちゃとしていて、すべてのことが「秩序」からは離れていたことでしょう。その世界の片隅で、イエスの十字架の出来事は何を与えたのでしょうか。彼に直接かかわった弟子たちや婦人たちにとっては、それまでイエスにかけていたすべてのことが、崩れ去ってしまうことだったのです。けれど、イエスを知らない多くの人も存在していました。彼らにとっては、「ちょっとした騒ぎ」にすぎなかったかもしれません。

わたしたちは、コロナウィルス感染症の渦中にあると思います。これを書いている日から三月末はもう少し落ち着いてることを望んでいます。おそらく、ワクチンの接種も進んでいることでしょう。けれど、この感染症の蔓延によって、わたしたちの生き方が変わったはずです。

イエスの存在は、多くの人の生き方を変えたのです。しかし、イエスの受難と死、そして復活は、さらに多くの人との生き方を変えています。今も変え続けているのです。

コロナ後の生き方が一変していないとするならば、わたしたちは「コロナ」から何も学ばなかっただけでなく、その大きな出来事を無かったものにしているのです。イエスの出来事がわたしにとって大きな出来事であると自覚するなら、世界を大きく揺るがしたこのパンデミックについても、深く学び取ることができるのではないでしょうか。



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