主日の典礼 2021年

12月5日 待降節第2主日  
ルカ3章1~6節

『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』(4~6節)

何事にも準備は必要です。準備怠りなければ、結果もよいものとなるでしょう、と言われていましたが、わたし自身は、そんなに用意周到に準備することは苦手です。どちらかというと、行き当たりばったり、なんとかなるさ、適当(どうでもよいのではない)でよい、と思ってしまいます。なんでも準備怠りないのは、なんだか息が詰まりそうになる、と考えてしまいます。

洗礼者ヨハネが「主の道を整えよ」と声高に叫ぶのは、「主の救い」がすぐそばまで迫っているのに、ぼんやりとし、それを見損ねている人が多いからです。見損ねている、というより、あえて目をそらしている、と言った方がよいかもしれません。「人間は見たいものしか見ない」とは昔の誰かが言った言葉ですが、その通りだと思います。いろいろな事情があるから、わたしにとって、こうだから、ああだから、等々。都合の良いことしか見なくなると、世界は狭くなり、自分だけが正しいと思い込み、周りの人のことも考えられなくなるのでしょう。


そんな心の狭い人間にはなりたくありませんが、ともすると、自分の考え、見方だけにとどまってしまいます。洗礼者ヨハネは、自分に厳しい人でしたから、たるんでいる人に叱責口調になるのは仕方がないのかもしれません。けれど、その声を本当に聞くことのできる人にとっては、喜びの訪れを告げる、喜ばしい声であるはずです。どんな状況にあっても、主の福音を告げる声に、喜びをくみ取る柔軟さが欲しいと思いました。


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12月12日 待降節第3主日 
ルカ3章10~18節


「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。(16節)

 先週に引き続き、洗礼者ヨハネが主人公です。洗礼者ヨハネの教えは、今日の箇所から見ると、そんなに突拍子もないことではありません。人に愛を尽くしなさい、人を大切にしなさい、自分の利益だけを求めてはならない等々、だれもが守るのに躊躇するようなことではなく、明らかに「簡単」なことに見えるからです。けれど、厳しい断食や苦行をするのではなく、日常的な愛の行いということの方が、本当はもっと大変なことかもしれません。断食・苦行はそれをやり遂げる、という目標に向かうものですが、日常的な愛のわざは、終わりがないからです。


日常のすべてを、神の愛にそった行いで満たしてゆくことは、簡単なことではありません。人間は自分勝手で自己中心で、周りの人よりも自分が大切だ、ということは分かり切ったことです。だからこそ、洗礼者ヨハネのことば、そしてイエスがこれから延べ伝える神の国の福音は、人生を根底から変えるものであるはずなのです。


 わたしたちは、この「簡単」な行為を、たゆまず続けてゆく覚悟があるのでしょうか。イエスの助けによって、続けること、継続することの恵みが与えられますように。


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12月19日 待降節第4主日 
ルカ1章39~45節


マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。(39節)

待降節も今週で終わります。第4主日は、マリア様の「ご訪問」の出来事です。待降節も最後になって、やっとマリア様の登場です。しかもマリア様は天使のお告げを受けた後、「急いで」エリザベトのところに行った、と記されています。急ぐということは、緊急性のあることだった、ということです。エリザベトを訪ねることが緊急の用事だったのでしょうか。マリア様の急ぐ理由は、きっと愛のためだったのです。大切に思っている人の助けとなること、そして何よりも彼女に神様の祝福、天使から告げられた「大切なこと」を分かち合うために、急いで行動なさったのではないでしょうか。


 大切なことは自分ひとりでとどめて置くことも可能ですが、マリア様の大切なことは、あまりにも大きくて、素晴らしくて、かけがえのないものであったからこそ、たいせつな人に告げることが重要だったのです。わたしたちも大切な喜びの知らせを、多くの人に分かち合いたいと思います。その喜びを受ける人が増えれば増えるほど、喜びはさらに増大することでしょう。それこそが、「宣教(ミッション)」なのだと思います。


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12月25日 主の降誕 
ルカ2章1~14節 (夜半のミサ)   


「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(12節)

「クリスマスは、毎年、素晴らしさを増してゆく」そんな意味のことばを、本で読んだと思います。毎年、去年のクリスマスはこうだった、今年はどうなるのかな、どんなプレゼントがもらえるのかな、サンタさんは何を持ってきてくれるのかな。など、子供のころからワクワクしてクリスマスを迎えたことと思います。

クリスマスの一番大きなプレゼントは何よりもイエス様なのですが、それと一緒に、家族で過ごす祈りと分かち合いの素晴らしさも、ひときわ大きな喜びです。残念なことに、日本では家族と過ごすクリスマスというのは少ないようですが、本当は、イエス様のために家族そろって過ごす暖かな思いは、とても大切なものだと思います。だから、この時期、苦しんでいる家庭や人々のことをもっと痛みをもって思い出します。戦争や災害の犠牲になっている人々、図らずも故郷ではないところでその日を過ごさなければならない人々、貧しく抑圧され人間らしい生き方を奪われている人々など、痛みはこの地上に存在し、わたしたちの行動を待っている人々は多いのです。

小さな行動、小さな一歩を始めることによって、イエスの思いが世界中に広がる可能性があります。その一歩を、ちゅうちょなく、行動に移せますように。それこそが、貧しい、見捨てられたイエスの誕生という「しるし」を見つけた人々の行動だからです。



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12月26日 聖家族  
ルカ2章41~52節  


母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(48節)

マリア様はイエス様が大切でたまらなかったので、こんなふうに嘆きとも怒りともつかない言葉を発したのでしょう。ヨゼフ様も言いたいことがあったかと思いますが、こういうところでは母親の方が行動を起こすので、ここでは何も言葉は記されていません。

とはいえ、家族3人がどうにかこうにか再び巡り合えたのですから、両親はほっとし、だからこそ怒りも出てくるのです。イエスは、そんな両親の心も無視するかのような発言をなさいます……。

 誰でも抱いているイメージがあります。理想の母親、理想の子ども、理想の家庭、理想の自分。けれど現実は苦いまでにその理想からかけ離れています。あの時こうであればよかったのに、と何度繰り返したことでしょうか。後悔ばかりです。とはいえ、理想を持っていないと、進むべき道もわかりません。理想は理想、現実ではない、と開き直ったとしても、進むべき道が、自分の向かう方向がなければ、迷ってしまうでしょう。

ですから、イエスの両親へのことばが「厳しい」ものだと感じたなら、それは、わたしたちの中にある「理想」がイエスのそれとかなり違っているということに気が付くのです。わたしたちは「仲良し」で、「和気あいあい」とした家庭・共同体・教会を望むことが多いのですが、イエスの厳しさは「なぜこんな」という問いかけに「わかっていないのですか」と問い返される厳しさなのです。

「どうして」という問いかけは、自分の思い、理想と、あなたのやっていることが違っている、だから私の考え、やり方に沿うようにシフトしなさい、という思いが込められたものではないでしょうか。本人は、ただ理由を問いかけているつもりです。でも本当はその問いかけの底に、相手を低く見て、導くべきものだという思いが隠れているのです。

マリア様がそうだとは言いませんが、わたしたちが使う「どうして」ということばは、イエスの厳しさを自分のものとしないで、暗にイエスをわたしのほうに引き下げてしまうことなのかもしれません。



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