主日の典礼 2021年

11月7日 年間32主日  
マルコ12章38~44節

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(43~44節)

わたしたちの生活は、たくさんのことで成り立っています。そして、生きてゆくためには、何かしらのお金がかかります。貧しさは一人ひとりの感覚によって違うかもしれませんが(つまり、たくさんお給料をもらっていても、足りないと感じる人もいれば、つましい生活で十分幸せで豊かだ、と感じる人もいるからです)、多くの人はより豊かな生活を目指しているでしょう。

特に、現代社会は消費社会ですから、様々な情報に踊らされて、あれがあったらいいのに、これがなければ不幸だ、と思いこまされているような気がします。どうでしょうか、わたしの幼いころは、このようなことはなかったように感じます。そういうとずいぶん年寄りのように思いますが、高度成長期前のまだまだ生活が豊かでなかった頃、物はこんなに巷に溢れていなかったし、お金を使うようなところはなかったように思います。けれど、一度お金を使って、自由にモノを買うことを覚えたら(おそらく、中学生のころのわたしです)、その快感にはまって、お金をどんどん使うこと、そして、もっともっとお金が欲しくなるのでした。それは良いことでしょうか。


今日の福音の「やもめ」という立場の女性は、聖書の中でも特に貧しく、寄る辺のない存在として描かれています。今日の福音だけでなく、新約聖書のあちこちに「やもめ」が出てきます。(マルコ十二章四〇節、ルカ七章十二節、十八章三節など)そのどれもが、神様以外には頼ることのできない、保護する人のいない、弱い存在です。ここに出てくる女性も、そのように貧しく、だれからも守ってもらえない、身寄りのいない人だったのでしょう。けれど、彼女が際立っているのは、その生活費すべてを神にささげた、ということにおいてです。

この「生活費」と訳されている言葉は、「生活費、財産」という意味だけでなく、「人生・生涯」という意味を含んだ言葉です。ですから、この女性は、生活費を捧げただけではなく、自分自身のいのちを、人生を、すべてを神にささげたと言えるのです。これは生半可な気持ちでできることではないのです。

誰もが、今日の夜はゆっくり休み、明日もまた元気で働き、その日の糧を得たいと望みます。その日一日を無事に暮らしてゆけるなら幸せだ、と考えていても、将来のことを考えたなら、少しでもお金で準備しておきたいというのが普通かもしれません。明日の食べ物がなければ、困るのは目に見えています。それが高じると、もっと豊かになり、もっと自由に使えるお金が欲しくなり、もっとものをそろえたくなってしまいます。

このような人間の本能ともいうべき行為に反する彼女の行為は、神に信頼する者の姿勢です。誰も貧しさがよい、というのではありません。経済的な貧しさがあり、ほかの人間に頼ることのできない時、神への信頼を持ち続けることができるのか、とイエスはわたしたちに問われています。イエス自身こそ、何もかもはぎとられた状態で、神への信頼を持ち続けた方だったからです。


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11月14日 年間第33主日 
マルコ13章24~32節


天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(31節)

いよいよ、年間も終わりに近づき、もうすぐ新しい典礼暦年が始まります。聖書の箇所も、終末預言の箇所が朗読されます。わたしたちは「終末」の意味を今一度、よく考えてみるべきだと思います。


それは、ひとりひとりの人生や生きた証が、すべて無駄なものではなく、完成する時であり、神のもとへと導かれるという確信なのです。どんなにこの世界での生きた時間がむなしいように見えたとしても、神様のもとですべては「完成」されるのです。わたしたちキリスト者はその完成に向かって揺るぎのない希望を持ち続けることができるのです。


 ですから「終末」とは、「世の終わり」でありながら、「はじまりの時」でもあるのです。すべてが一新され、この世界の完全な完成を見る時、充満の時なのでしょう。もちろんそれがどうなるか、という具体的なことはわたしたちにはわかりません。神様の計画は、計り知れず、その時がいつになるか、どんな風になるかは、人間ではわからないことではないでしょうか。けれどイエスのみことばは、決して滅びません。それはイエスが神とともにあり、神の息吹で生き、今も、これからもわたしたちを導いてくださるからです。苦しみなやむ多くのことが起こります。個人個人の苦しみも、社会全体の苦しみや悩みも、完成に至るための道筋なのだととらえることも出来ます。その痛みや苦しみに負けないためには、自分だけの力に頼っては無理があるでしょう。人と人、わたしたちと神様の強い絆を保って、希望を見失わず、信じ続けることができるよう、祈っていきたいと思います。


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11月21日 王であるキリスト 
ヨハネ18章33b~37節


わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。(37節)

「真理とは何か」とピラトはイエスに尋ねました。けれどその答えを彼は聞くことができなかったようです。人々は全生涯をかけて「真理」を探究してきました。正しい知識や真理を学ぶことは、幸福の追求につながります。誰でも、これという正しい答えが見つかったとき、喜び、幸福感を味わうことでしょう。本当の豊かさに導かれ、正しい生き方ができることは、人間にとってかけがえのない幸福だと思います。


けれどその真理を探究することは、人間の力、自分ひとりの力だけでは十分ではありません。多くの人が学んできたことを自ら学び、いろいろな人の教えと導きに従い、人生を歩んでゆくことが必要です。

誰からも学ぶ必要はない、といった傲慢な姿勢では、行き詰まりがあることは誰でもわかることです。

人間は生まれたときから、ほかの人の手によって育てられています。言葉を学び、文字を学び、人と人との関わり合いの中で人生を豊かにする必要なことを学んでゆきます。孤独を感じて苦しんだことも、人との関係で痛みを味わうことも人生の歩みにおいて避けられないことです。そのような痛みや苦しみも、喜びや幸福も、すべては生きてい行く途上で、人生を豊かにしてゆくものでしょう。どんな些細なことも無駄ではありません。すべては複雑に糸を織りなしたタピストリーのように、複雑に絡み合い、一本たりとも無駄のない、美しい織物のようなものです。裏から見てもその糸の絡まりは何にも意味をなさないように見えても、表から見たとき、それは美しい模様を描き、ほれぼれするようなものになっているはずです。わたしたちの人生は、神とわたしたち一人ひとりが共同で織りなすつづれ織りのようなものなのだと聞きました。


ですから、真理を探究し、本当のものに出会えることは素晴らしいことなのです。イエスがあかしした真理はイエスご自身であり、それはわたしたちにもあらわされているのです。いのちを賭けて証しされたイエスの真理をわたしたちも日々見ことばを通して受け取っているはずです。どうかこのことを忘れないように、そして、日々真理の導きのもとに、生きてゆきたいと思います。


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11月28日 待降節第1主日 
ルカ21章25~28、34~36節  


人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。(36節)

ここで「目を覚まして祈りなさい」とあらわされている言葉は、原文のギリシア語では「現在命令形」のことばを使っています。日本語で言えば、「目を覚ましなさい」「祈りなさい」と単に命令するだけではなく、「目を覚まし続けなさい」「祈り続けなさい」という動作を継続するように命令していると言われています。(「主日の福音」C年16ページ参照)

ただ目を覚ましているだけでは十分ではないのです。覚まし続けて、「主を迎え」ることが必要とされています。祈っているだけではなく、さらに祈り続けることが求められています。絶え間なく祈ることが求められています。

そのような継続性は、緊張を伴うもので、そうそう続くものではないことはもちろんです。キリキリと緊張しっぱなしの精神では、疲れてしまいますし、他の人への配慮も無くなってしまうかもしれません。かえって、自分のことにかまけてイライラしたとしたら、本当に「目覚めて」いるということにはならないのではないでしょうか。

それではどうすればよいのでしょうか。目覚め続けることは、緊張し続けることではなく、どんなことにも関心を持ち、神様のみ旨に対して開かれている状態のことを言っているような気がします。信仰の感性を磨く、と言ってもよいのかもしれません。自分のことでいっぱいになっていることは、目覚めている状態とは遠いものではないでしょうか。そして自分でいっぱいの時には、祈り続けることも難しいのではないでしょうか。

祈りを継続することは緊張を継続するのではなく、絶え間なく祈る心を保つ、やはり開かれた自由な、分け隔てのない心を祈ることではないかと思います。

目覚めること、それは自分の中に境界を設けず、どんな人、どんな状況においても、信じて受け入れてゆく心のことではないかと思います。多くの人の痛みや悲しみ、善意だけではなく、悪意に対してもきちんと対峙してゆける柔らかな心を保ちたいと思いました。



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