主日の典礼 2021年

1月1日 神の母 
ルカ2章16~21 

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(21節)

「イエス」という名前は、当時のヘブライ語では発音が「イェオシュア」(旧約聖書の「ヨシュア記」の主人公と同じ名前)です。カトリック教会では以前、「イエズス」と呼びならわしていましたし、昔からの信者さんは、今も「イエズス様」と呼びかける方も多いと思います。イタリア語では「ジェズ」英語で「ジーザス」、スペイン語では「ヘスス」と発音するのですが、どのように呼びかけようとも、その名は一つなのです。

 この名前は、わたしたちの世界に大きな意味を持って現れました。そんなイエスの名前が付けられたのが降誕八日目の出来事だったのです。

それが「神の母」の祝日になるのは、イエスとその御母との深い絆によるものだと思います。それは、イエスと人類との絆であり、イエスとわたしたち一人ひとりとの絆を考えるときだからではないでしょうか。

 神様は、イエスを通してこの世界を救おうとなさいました。イエスは人間で、マリアの子で、わたしたちと同じ人なのです。二千年前にこの世界に倦まれたイエスは、その人間性によって、時間と空間に縛られた体を持たれたのです。それは、人間という弱い愚かな存在を神様が丸ごと引き受けてくださったということです。人間であるからこそ、イエスは母親から生まれ、赤ちゃんという弱い存在によってこの世界にやってこられました。

王様や軍隊、偉大なものやお金持ちではなく、弱い人間の赤ちゃんの姿で現れた神の御子は、その母の手によって抱かれてこの世にあらわれました。

だからこそ、イエスの存在は、母の存在を抜きにしては語れないのでしょう。幼子を抱く母親という、だれもが微笑んでいとおしむ場面を神様は、その子と母という形で地上に見出すようにされたのです。

神の母ということばによって見出されるマリアは、きらびやかな女王でも、罪の穢れのない無垢なおとめでもなく、地に足をつけ、しっかりと子供を抱きしめるたくましい「母親」の一人なのです。現代の日本では、多くの母親が苦しみと貧困にあえいでいます。どうか彼女たちが、そして彼女を取り巻くこの世界が、やさしく美しく、神の愛を表す豊かなものでありますように。


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1月3日 主の公現
マタイ2章1~12


家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。11節

今日は「主の公現」です。イエスがユダヤの民の救い主であるだけではなく、すべての人々の救い主であるということを、公に表した記念を祝います。そのために登場するのは、幼子イエスと東方の博士たち、そしてエルサレムに住む「民の祭司長たちや律法学者たち」とヘロデ王です。

イエスを拝みに来た学者たちは、ユダヤ民族ではない人々で、イスラエルの民から見れば、救いの外にいる人々です。けれど彼らこそがイエスを「救い主」「王」として礼拝するのです。エルサレムにとどまっていた人々は、イエスの存在は「知って」いたのですが、「出かけない」で都にとどまったままでした。

 東方の博士たちはイエスに出会い、イエスの示す「新しい道」に向かって歩み始めます。ですからエルサレムには戻らないのです。イエスはただ彼らにご自身を示され、そこで神の栄光を表されます。幼い子供が「神の一人子」であると、どのようにして信じることができるでしょうか。それは知識や、世の知恵ではなく、ただひたすら「星の光」についてゆくひたむきさが大切なのだと思います。

 わたしたちはこのひたむきさを、失ってはいないでしょうか。やらなければならない事、やってくる事に対応するだけで、その時その時をただ漫然と過ごしているような気がするわたしです。ぼんやりしているつもりはないけれど、ひたむきな熱を傾けて、何かを追い求めることをしなくなっています。これではだめだ、と感じているのに、ひたすらさもひたむきさも、熱心さもなく、生ぬるい日を過ごしています。

わたしたちは、神の救いを本当に待ち望み、焦がれているでしょうか。現代社会はコロナ感染症以前には、「なにが神の救いか」ということすら忘れ、この何でもない日常が普通に続くことを疑ってはいませんでした。今年はこの感染症で開け、パンデミックにおびえ、社会不安の中で過ごしてきた日々でした。神の救いはどこにあるのでしょうか。こんな時に教会の役割とは、何なのでしょうか。信者として、何をすればよいのでしょうか。

洗礼者ヨハネのことばを味わいたいと思います。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」。わたしたちの間に「救い主イエス」が確かにおられることを確信し、それをのべ伝えることが出来るでしょうか。わたしたちの待っている「クリスマス」は「神がわたしたちとともにおられる」ことを確認し、伝え続けるときなのですから。


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1月10日 主の洗礼  
マルコ1章7~11


イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。(9節)

  降誕節は今日で終わります。降誕節の最後に、主の洗礼をお祝いするのですが、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)のどれにも記されている「主の洗礼」の箇所は、今のわたしたちに何を語り掛けるのでしょうか。

そもそも、イエスが洗礼を受けるのはなぜなのか、考えることができます。いろいろな解釈はあっても、イエスはわたしたちと同じ人間性を担われたという事実が残るのではないでしょうか。

人間であるということは、一月一日にも述べたように限界があるということなのです。時間と空間に支配され、限定的な場所と時間で生きることになります。未来には行けませんし、過去のことを消すことも出来ません。弱く、自分のことしかわからないのが人間であり、ほかの人の助けがなければ生きていけないのが人間です。また、何よりも神様に生かされているのですが、それを意識している人はどれくらいいるでしょうか。

イエスは神の子でありながら、この人間としての限界と弱さを身に帯びられました。それは「神が人間になり下がった」のではなく、「人間が神の尊厳を持つものになった」ということではないでしょうか。

イエスの洗礼によって、わたしたちの弱さは、神様の強さに覆われ、その生き方に倣うように招かれているのです。多くの人がそのことを受け入れることができますように。


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1月17日 年間第2主日  
ヨハネ1章35~42  


ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。(35~37節)

洗礼者ヨハネが弟子たちにイエスを指し示すシーンです。弟子たちは洗礼者ヨハネを付いて行くに足りる「先生」だと思い、その生き方に倣って彼のところで修業していたのでしょう。ヨハネのことばを聞いて弟子たちはイエスのところに行くのです。特にヨハネがよくなかったとかではなく、イエスを指し示したヨハネのことばが強いインパクトをもって弟子たちを動かしたのでしょう。それとも、イエスの姿が、それだけ強い力を持っていたということでしょうか。

イエスに従った二人の弟子は、その夜、「イエスのもとに泊まり」、深く語り合ったのだと思います。この「泊まる」と訳された言葉は、「つながる」とも訳されることばです。(私につながっていないなら実を結ばない・ヨハネ十五章参照)イエスのもとに「泊まる」ことはイエスのつながることだったのです。

弟子たちが洗礼者ヨハネのことばを聞いてイエスの方へ行き、そのイエスとの深いつながりを知ったとき、それは自分自身を知っていくことになりました。イエスは「なにを求めているのか」という問いかけによって、弟子たちに自分につながる道を示してくださったからです。

わたしたちがつながっているものは何でしょうか。イエスにつながっていたいと思いつつ、ほかのものに重きを置き、イエスのことばにより頼むことができていない自分がいます。小さな言葉や会話からでも、イエスが何につながっているかを知るなら、わたしたちもイエスとつながるためにそれを心にとめておきたいものです。



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1月24日 年間第3主日   
マルコ1章14~20 神のことばの主日  


イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。16節

十六節は、ギリシア語のことばの順では、「(イエスは)行きながら、ガリラヤ湖に沿って、(イエスは)見た」となります。イエスが見たものは、シモンとアンデレの兄弟でした。

この最初の弟子たちの召命の箇所は、二箇所ともイエスが「見た」こと、イエスが「言った」こと、彼らが「従った」ことによって特徴づけられています。

  ここで重要なのは、人間がイエスに「従った」ことにあるのではなく、イエスが「見た」ことと「声をかけた」ことなのだと思います。わたしたちは自分の人生で、何でも自分で決めてきたと思いがちですが、本当にそうでしょうか。自分で決めるためには、呼びかけや、きっかけや、選択できるものが必要ですが、それらはすべて自分で得られるものではないような気がします。

たとえば、野球選手になりたいと思い、そのために努力し、その努力が実を結ぶときもあるでしょうし、残念な結果に終わることもあるでしょう(才能がなかったとか、けがをしたとか、もっとすごい人がいたとか)。けれど「なりたい」と思った気持がどこから来たのか、それは「呼びかけ」なのではないでしょうか。

多くの人が、その呼びかけに気が付いて、自分の道を歩み始めるのです。それは自分が何かを知ることでしょうし、周りがどうなのか、人生がどのようなものか、自分のできることと、社会に何を返してゆけるのかを知ることでもあります。一人ひとりの人生は、その人のものであり、同時に、生きている社会の中で、人と人とのつながりによって実現されてゆくものだからです。

神様のいつくしみは、そんな一人ひとりを大切にし、本当の幸福へと導くものです。そのような神様のいつくしみも招きもわからずに、若い人たちが自分の大切さ、素晴らしさを認められないことは、とても悲しくつらいことだと思います。これは彼らのせいではなく、社会全体がそのように彼らを閉じ込めてしまっているからではないでしょうか。大切な神様の呼びかけといつくしみ。わたしたちキリスト者は多くの人に神様の呼びかけといつくしみを知らせる「みことば」「声」「光」となる必要があるのです。



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1月31日 年間第4主日   
マルコ1章21~28  


イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。21~22節

イエスの権威とは何でしょうか。イエス以外の律法学者たちも、権威をもって教えていました。しかしその権威は、「律法」を正しく解釈し、神の掟に従っているという自負からくる権威だったように思います。イエスは律法を教えるのではなく、律法そのものを生き、御父の教えを体現しておられるのです。そこがイエスの権威のよりどころではないでしょうか。イエスは外から権威を与えられたのではなく、権威ある方そのものなのです。

世の中の権威をもつ人々は、その権威が自分に「与えられた」ことを忘れてしまうことが多いようです。政治家や会社のトップが、自分に与えられた権威を、自分勝手に乱用してしまい、愚かな落とし穴に落ちてしまうことはままあることです。本当の知恵ある人は、自分に付与されたものと自分自身をきちんと見分けることができるのです。イエスは、ご自分がどのような権威をもち、どんな使命を果たさなければならないかをよくご存じだったのです。

人々が驚愕することは、その内容もさることながら、イエスが真に力をもって「赦し」と「癒し」を与えられたからです。イエスは多くの教えと癒しによってわたしたちに直接働きかける神の力を表されています。みことばと力によってイエスがこの世界に介入されることは、すなわち御父の愛のみこころが実現するときなのです。わたしたちも、イエスのことばを味わうとき、御父のいつくしみの愛に触れ、自らを開いてゆくことができますように。


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