主日の典礼 2020年

12月6日 待降節第2主日 
マルコ1章1~8節

『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』(マルコ1章3節)

「待降節」とは、文字通り「(主の)降誕を待つ」季節です。

  待つということは、幼いころにはとても難しいことではなかったかと思います。いろいろなことを待たなければならないのが、なんと歯がゆいことだったでしょうか。年齢を重ねると、そんなことはあまりなくなったのでしょうか。もう、待つことには慣れっこになった、とおっしゃる方も多いかもしれません。人を待ち、機会を待ち、時期を待ち、お給料日を待ち、支払う日を待ち、病院でも薬局でも、お役所や銀行や郵便局など、待つことは多いのに、それが当たり前で、「待つ」という意識もなくなっているのかもしれません。けれど、こうやって考えてみると、わたしたちの生活は、ほとんどが「待つ」時間であるともいえるのです。

 特にコロナ禍にある現在、さまざまな「待つ」を強いられているわたしたちです。一日も早い終息を、と願いつつその時を待つよりほかはありません。旧約の民のように救い主を待ち焦がれる状況にあるともいえるかもしれません。神の約束は、いつ果たされるのだろうか、という懇願と焦燥に満ちた「待つ」時を、今全世界の人々は過ごしているのではないでしょうか。

  日常生活の小さなことについても同じです。いろいろなことをしようとしても、それは多くは待ってから始めなければならなかったり、準備に時間をかけたり、人の意見を聞いて待つことも多いかと思います。どんな楽しみであれ、子供のころの「待つ時間」よりは、歯がゆさは減っても、イライラ感が増えているのではないでしょうか。

わたしたちは、時間に追われているようです。児童文学の名作「モモ」には、時間泥棒が登場しますが、わたしたちの生活も同じように「待つ」ことに追われているようです。あるいは、待ってばかりで時間が足りない、と考えてはいないでしょうか。

わたしたちの時間は、神様から十分に与えられているはずなのです。どこかの聖人が言われたように、「愛を実行する時間は無限にある」ということなのです。それが足りないと考えるのは、わたしたちが自分の時間を自分のためだけに浪費しているからではないでしょうか。神様のために使う時間とは、「主の道を整え」ることであり、それは、神様の愛と正義を実行する時間なのです。「主の道をまっすぐに」するために、わたしは「待つ」こと、神様の愛のために「待つ」ことが出来ればいいな、と考えます。


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12月13日 待降節第3主日 
ヨハネ1章6~8、19~28節


「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」(26~27節)

 洗礼者ヨハネはイエスの時、神の救いの時を待ち望み、そのために人びとに呼び掛け、回心を促して活動しました。とはいえ、彼の活動は、権力者にとっては目障りなもので、イエスと同じように迫害を受け、その殉教によっても、イエスの先駆けとなっています。

彼の意識は「神の国は近づいている」「救いはそこまで来ている」に向けられています。自分ではなく「神の救い」が中心なのです。

わたしたちの待降節、クリスマス、年末年始はどうでしょうか。多くのイベント、予定が目白押しかもしれません。あるいは、今年は何もできない、と考えておられる方もいるでしょう。仕事がなくて、不安な日々を過ごしておられる方、医療の現場では、まだまだ厳しい日々が続いていますから、疲れ切った方も多いかと思います。

そんな中でも、クリスマス、主の降誕はやってきます。

わたしたちは、神の救いを本当に待ち望み、焦がれているでしょうか。現代社会はコロナ感染症以前には、「なにが神の救いか」ということすら忘れ、この何でもない日常が普通に続くことを疑ってはいませんでした。今年はこの感染症で開け、パンデミックにおびえ、社会不安の中で過ごしてきた日々でした。神の救いはどこにあるのでしょうか。こんな時に教会の役割とは、何なのでしょうか。信者として、何をすればよいのでしょうか。

洗礼者ヨハネのことばを味わいたいと思います。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」。わたしたちの間に「救い主イエス」が確かにおられることを確信し、それをのべ伝えることが出来るでしょうか。わたしたちの待っている「クリスマス」は「神がわたしたちとともにおられる」ことを確認し、伝え続けるときなのですから。


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12月20日 待降節第4主日  
ルカ1章26~38節


「神にできないことは何一つない。」(37節)  マリア様のお告げの場面で、天使がマリア様にこう言います。「できないことはない」はずの神様が、赤ちゃんとなって、人間となって、この世界に介入してくださいます。受肉の神秘は、全世界の驚嘆、あらゆる宗教のタブーを超えた神秘ではないでしょうか。誰も人間が神であり、神が人間であるなどと考える人はいなかったのです。この神秘を十分に味わいましょう。わたしたちのために人となられた、神であるイエス。救いのために、わたしたちのために、あなたのために、わたしのためにこの世界に来られた主であるイエスの神秘をマリアとともに黙想し、そこに迫った主の降誕のお祝いを見つめてまいりましょう。


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12月25日 主の降誕  
早朝のミサ ルカ2章15-20節  


マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。(19節)

早朝のミサの福音は、「夜半のミサ」の福音の続きです。天使たちが羊飼いたちに告げた言葉によって、羊飼いたちはイエスを拝みに行きます。

当時の羊飼いは、律法を守ることが出来ない人々でしたから、「罪人」と呼ばれる人々でした。彼らが真っ先に救い主を礼拝したのです。

けれど質問する人たち、イエスを敵視している人々にはそんな心が通じません。彼らはイエスに対する憎しみや嫉妬で固まってしまい、イエスは自分たちの利権を脅かす危険な人物であることしか考えられないのです。

降誕節に歌われる「来たれ友よ」や「まきびと」という聖歌は、彼らが喜んでそこに行ったことを歌います。教会に飾る「馬小屋」にも羊飼いは欠かせません。それだけ、降誕の場面には羊飼いたちが欠かせないということだったのでしょう。

 彼らは学問を治めたわけでもなく、金持ちでもなく、むしろ貧乏で、罪人と呼ばれ、町の人からは嫌われていたのかもしれません。彼らの立場は、現代における難民や不法滞在の人々、「外国人」と呼ばれ、厳しい労働に従事する人々、使い捨てにされる労働者、様々な状況で、精神を病んだり、引きこもったりする人々、あるいは、見捨てられた高齢者、子供たち、障がいのある人ではないでしょうか。

彼らこそ、いちばんにイエスを礼拝する人々です。なぜなら、彼らがイエスを必要とし、またイエスも彼らを必要としているからです。イエスは虐げられ、抑圧され、小さくされている人と同じ立場でこの世界に来られます。彼らの場所にイエスが来られます。

本当にイエスを必要としているのは、実は、安全地帯で、何の痛みも感じずに暮らしている、驕り高ぶったわたしなのです。それにも気が付かないで、クリスマスのケーキを食べているわたしは、イエスの小ささを自分のものにしなければならないと思います。



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12月27日 聖家族の主日   
ルカ2章22~40節  


モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。(22~23節)

「聖家族の主日」は、降誕節中の主日に祝われます。今年は、クリスマスが25日の金曜日ですので、お祝いの後、どちらかというとすぐにこの主日がやってきます。

さて、聖家族の中の主人公は誰なのでしょうか。

 聖家族を描いた御絵や御像で中央にいらっしゃるのはイエスです。幼子イエス、あるいは、少年イエスです。何の気なしに見ていることですが、そこには青年イエスはあまりないと思います。グーグルで画像検索してみても、赤ちゃんイエスとマリア様、そして年取ったヨゼフ様が多いように思います。

マリア様と結婚されたヨゼフ様は、以前はうんと年寄りであると設定されていたようですので、おじいさんのヨゼフ様がよく絵画には描かれています。けれど現代ではマリア様の若さに釣り合った、「イケメン」ヨゼフ様も描かれています。

とはいえ、聖家族は家族としてどうだったのでしょう。

「どう」って、聖人たちの家族だから、聖なる雰囲気がいっぱいで、家の中はお花畑だった……などということはなかったと思います。旅先でのイエスの出産、エルサレムでの出来事(今日の福音)、エジプトへの避難、様々な困難の中、家族はそれでも3人が互いに支えあっていたのだと思います。

 これこそが、現代の家族の助けになることです。たとえバラバラになり、貧しく、親が一人でも、子供が福祉施設にあずけられたとしても、家族は家族として成長してゆくことでしょう。現代の社会では、わたしが小さかった頃のように両親と子供、祖父母や親せきといった家族のつながりは本当に難しくなっています。結婚して、子供を授かって、離婚して、また結婚して、シングルで子育てをし、あるいは、共働きで、子供と過ごす時間が少なかったり、結婚しても子供がいなかったり、本当に様々な形の家族があります。けれど、「聖家族」はそのような形の家族をそれぞれに形で支えているのではないでしょうか。

お父さんとしてのヨゼフ様、お母さんとしてのマリア様、そして、子供であるイエス様、家族の誰かがその聖家族の誰かであること、そして、自分の家族にはその人がいない、と思っても、神様がそこに居ることを思い出せたら、「聖家族」がわたしたちの家族になっているのではないでしょうか。



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