主日の典礼 2020年

6月7日 三位一体の主日 
ヨハネ3章16~18節 

 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(18節)

 「裁く」「裁かれる」ということばを、どこかで恐れていたり、ばかにしたりと、わたしたちはその意味を見ないようにしている気がします。「裁き」の本当の意味は、人が人を裁いて判断するといったことではなく、神の愛の実現だと思います。

 わたしたちの目には、いろいろなことが理不尽であり、おかしいと感じられます。悪がこの世界で勝利を治めることもしばしばです。幼い子供たちが虐待を受けて命を落とすこと、多くの若者が、心と体を病んでいます。高齢者は見捨てられ、病気の人びとの孤独は大きく、医療従事者の苦労は果てしもありません。そうかと思えば、一部の富んでいる人々が肥え太り、独裁者たちは自分勝手に国を動かそうとしています。貧しさは果てしなく、それに伴うテロリズムはますます大きくなり、内戦や紛争も絶えません。この世界の苦悩は尽きることがないようです。

一刻も早く、神様が裁いてくださることを望んではいないでしょうか。悪をもたらす人々に対して、神様の裁きを望んでしまいます。「悪い人々は、滅んでしまえばよい」と。  けれど、神様の裁き、神の正義は、「悪人」の滅亡ではないのです。滅ぼしつくすことを神は望まれません。神の正義は愛といつくしみ、決して悪人の滅びを望まれない神なのです。

 だからこそ、神様はこの世に「御子」を遣わされました。御子を信じることが救いであり、彼に信仰を宣言することによって、人は神の愛を受け、愛を返して生きることが出来るようになるのです。

 この世界は混迷を深めていくようです。人間の傲慢をあざ笑うかのようなウィルスの脅威は、わたしたちの弱さ、被造物としての弱さを再確認させ、神にたちかえるように促しています。それは神の力による威嚇ではありません。弱さの中に潜む、神の息吹の愛の促しです。わたしたちが弱ければ弱いほど、神の愛といつくしみは、力強く、わたしたちを導くのです。


Go to Top


6月14日 キリストの聖体 
ヨハネ6章51~58節


わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。(51節)

 イエスご自身を口にするのだ、と聖体拝領の時に心にとめていると思います。深く感じ、味わい、心と体が満たされるときです。このパンデミックの間、教会で公開のミサが行われない時(もしかしたら、6月にもそれが続いているかもしれませんが)、わたしたちはどのようにして心と体にイエスを受けることが出来るでしょうか。

一つは、みことばによって、もう一つは、人と人とのつながりによってイエスを受け取ることが出来るのではないかと思います。孤独と不安のうちに暮らすことは、心をなえさせ、不健康な状況を作り出します。人間は孤独では生きられないものですから、たとえ「うるさいなあ」「めんどくさいなあ」と思ったとしても、人と人とのつながりは断ち切れないのです。

けれど、人とのつながりが恐怖である人もおられます。他の人からの理不尽な仕打ちや、悪意ある言葉と行動などによって、傷つけられた人にとっては、不特定多数の人と交わることはもちろん、近くの人とも心を通わせることが出来ないのではないでしょうか。彼らの孤独を知っておられるのは、イエスだけです。彼も裏切られ、孤独の中で死なれたからです。

どんなに孤独で苦しくても、わたしたちには、十字架を乗り越えて、復活したイエスがおられます。彼こそ、わたしたちの希望です。どんなに苦しくても、ともに苦しみを担ってくださっているイエスがそこにおられること、そして、彼は死んで復活されたということ。何よりも、秘跡によって、みことばによって、人との交わりの中に現存しておられること。それを感じ信じられるよう、目に見える形を通して、イエスはこの世界に最後まで、留まり続けられるのでしょう。聖体の秘跡の偉大な神秘を感じ、信じ続けてゆけることに感謝します。


Go to Top


6月21日 年間第12主日 
マタイ10章26~33節


だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。(32節)

「イエスの仲間であると言い表す」とはどういう意味でしょうか。原文では「人々の前で、わたし(イエス)を知っていると言うこと」です。「人々の前で」が大切なところではないでしょうか。知らない人から、あるいは、良く知っている友人から、「教会に行っているんだって?どうして?」などと問われたとき、どんなに答えましょうか。仕事や結婚、人生の節目の時に、自分が信じていることをきちんと兵銀出来たでしょうか。

  わたしは修道者であり、普段は修道服を着ていますから、一目で「キリスト教徒」だとわかります。それでも時には、「どうして信じているのですか」、「目に見えない物を信じるのですか」と問われることがあります。一言でお答えすることが出来ないので、行き掛かりの人には言葉を濁したりしてしまうときもあります。

 けれど、その人が本当に求めていることがわかったときは、言葉を尽くして話したいと思います。でも、多くの場合、なんだかうやむやで終わりそうな気がします。それではいけないな、と思うのですが。

  小教区で働いている時、入門講座を担当したことがあります。もしかしたら、わたしの話を聞いておられた方が、この文章を読んでおられるかもしれませんね。どんな感想をもって、話を聞かれていたのかとても気になります。拙い言葉で、イエスのことを、神様のことを伝えきれていたでしょうか。それとも、自分勝手なことばかりだったでしょうか。「イエスの仲間である」ことをきちんと伝えきれていたでしょうか。

そんな体験の中には、たくさんの挫折がありましたが、人間の弱さの中に働かれる聖霊が、すべてを上手に導いてくださっていたのではないかと思います。また、そう思わなければ、だれもイエスのことを伝える勇気を持てないのです。

皆様も、いろいろな時に、勇気をもって、つたなくても、貧しくても、自分のことばでイエスを伝えることができますように。



Go to Top


6月28日 年間第13主日  
マタイ10章37~42節  


自分の命を得る者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得るのである。(39節)

 いのちとは何でしょうか。生きるとは、どんな意味があるのでしょうか。

 古い映画で「生きる」(黒澤明監督)というのがありました。これをわたしはローマで勉強している大学で見たのです。日本語の映画でしたが、イタリア語に吹き替えられていたと思います。日本人がイタリア語でしゃべっているのを見るのは、不思議な気がしましたが、幸いにもわかりやすい話で、理解出来ました。主人公は、死に直面して、それまでの生き方がかわり、本当の意味で「生きた」時にこの世界での生命は終わるのです。彼の生きた証は、確かに残りました。それは本当に大切なことは寿命の長さではなく、どのように生きたか、ということを考えさせる映画でした。

  わたしたちは「生きて」いるでしょうか。イエスのために命を失うことを考えたことはあるでしょうか。この世界での生命を失うことだけではありません。多くの場合、自分の執着や好み、自分自身のこだわりなどを捨てなければならないこと、それがイエスのために命を差し出すことではないでしょうか。

持っていても何ら支障のないわたしの「こだわり」、正しいはずのわたしの「意見」、ほんの小さなことに関するわたしの「好み」。これらを捨てることは、実はたやすいことではないと、わたしは思います。けれど、このような執着を捨てなければ、いのちを得ることが出来ないのだ、とイエスは言うのです。 

執着を捨てなければいのちを生きることが出来ないのだ、と知ってはいても、実行することはむつかしいのです。すべての執着を捨てますとは、決して言えません。小さなことを少しずつ捨ててゆくのが精一杯です。そして、捨てたかと思えば、また、新たな執着が生まれます。  

生きた証を残すことすら、イエスのことばの前には執着になるのかもしれません。確かにむつかしいことです。けれど、それをあきらめることなく続けることこそ、本当に生きることなのではないでしょうか。



Go to Top