主日の典礼 2020年

7月5日 年間第14主日 
マタイ11章25~30節

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(28-29節)

「疲れ」や「重荷」は現代の社会では「ストレス」と言い換えてもよいかもしれません。ストレスを感じないようにしたいと思っても、そんな簡単なことではないでしょう。仕事で、教会の中で、ご近所づきあいで、家族の中で、ストレス、あるいはしがらみというか、やりきれない思いがわたしたちを支配しているようです。

新型コロナウィルスの影響で自粛生活を送ると、普段日常で簡単にできていたことが、できなくなったという報道がされました。買い物、ぶらぶら歩き、食事、カフェでのおしゃべり、ライブハウスに行くこと、図書館や美術館で過ごすこと。そんなことが出来なくなり、わたしたちの生活は「内に」こもったものとなったかのようです。そして、内にこもることが「ストレス」を呼ぶとさえ言われてしまいました。

本当にそうなのでしょうか。家の中にいることがストレスということは、外に出かけることによって、そのストレスを発散させていたのでしょうか。そうではないと思います。  家の中にいて、いろいろなことが出来なくなること、それがストレス、つまり、強制されて思いのままに行動できないことがストレスなのでしょう。わたしたちは思いのままに行動することが、いちばんストレスフリーの状態なのだ、と思っているようです。そんなフリーの状態を今まで感じていたでしょうか。

普段、どんなに自由な状態にあったとしても、制約は常にありますから、その決まりや制限を受け入れることは誰でもやっていたはずなのです。それなのに「出かけないでください」「自粛してください」と言われた途端、圧迫を感じてしまう、それが人間の勝手なところのようです。誰かに強制されることが、とても不自由な状態なのです。同じことを自らの意思で行っていても、そこには自分で選んだという「自由」がありますから。

イエスのことばは、わたしたちが「重荷」も「軛」もない世界に連れて行こうというのではありません。イエスは「重荷を負っていても、一緒にいるから大丈夫」と言われるのです。イエスの行動は、わたしたちを本当に自由にしてくださるものだと思います。

ストレスの多い状況が続いています。こんな時こそ、重荷を共に担ってくださる方に信頼できますように。


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7月12日 年間第15主日 
マタイ13章1~23節


大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。(2-3節)

イエスのたとえ話は、本当は「たとえ」だけで終わっていたと思うのです。今日の福音の後半部分、つまり「たとえの解説」は後から付け足されたものかもしれません。なぜなら、たとえ話というのは、語り手が語った後、聞き手がそれぞれに考えて解釈するものだからです。

多くの人がこのたとえを聞きましたが、わたしたちもまた、このたとえをわたしの解釈で聞き直さなければならないのです。後半の「解説」を頼りとして、良い土地になって、みことばを何倍にも増やさなければならないと考えることももちろん正しいことだと思います。けれど、イエスのたとえはもっとダイナミックで、生き生きとして、人間の思惑を超えて働くものではないでしょうか。

たとえば、みことばをまく人に注目することも出来ますし、石地の土地のことを考えることも出来るでしょう。自分がそうならないために努力する、というのではなく、自分の中に「石地」も「道端」も「いばらの生い茂った土地」もみんなあるような気がします。

あるいは、種まく人が効率よく働かないのはどうしてか、ということも考えられます。当時の農業の仕方がそうだっただけでなく、みことばをまくときに効率の良さが求められるのでしょうか。

たとえはたとえで終わるのではなく、わたしたちへの重要な問いかけです。それを考えながら、みことばを味わっていきたいと思います。


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7月19日 年間第16主日 
マタイ13章24~43節


僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』(28-30節)

「毒麦」と普通の麦の違いは、昔はよく分からなかったそうです。黒い穂が生え、一緒に刈り取ってしまうとその毒麦の入った食料や飼料を食べて人間や家畜が病気になるそうです。麦自体が毒をもつのではなく、麦の穂についた「細菌」が毒をもつということらしいのです。どちらにしても、そんな毒をわざわざ良い麦の間においておくことは危険なことのように思えます。

わたしたちはそんな風に思うのですが、天の御父はそうではなく、最後まで一緒に置いておきなさいと命じられます。それは毒麦と良い麦との間の類似性によるのでしょう。どちらも「麦」であることに違いはありません。そんな毒麦がこの世界に存在していることをわたしたち人間は許せない、と思ってしまいがちです。けれど、良い麦と毒麦が一緒に始末されることになったら大変です。第一、だれが「毒麦」か、「良い麦」かを識別するのでしょうか。

自分は「良い麦」だから大丈夫などと考えていても、危なくはないでしょうか。実は自分は「毒麦」と思っていない「毒」を持っているかもしれませんし、「良い麦」でもないかもしれません。

世の終わりには「良い麦」と「毒麦」の二つしかないようです。どっちつかずの「良くもない、悪くもない」ものは、おそらく良くない方に勘定されるのではないでしょうか。さあどうしましょうか。わたしたちはどんな実りをつけているでしょうか。



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7月26日 年間第17主日  
マタイ13章44~52節  


天の国は次のようにたとえられる(44節)

いのちとは何でしょうか。生きるとは、どんな意味があるのでしょうか。

このみことばは、何度も繰り返されます。「天の国」とは他の福音書では「神の国」と言われているもので、「国」ということばに訳されてはいますが、その意味はもっと広いもの、いわゆる「神の完全な支配」、「神がすべてを計らって下さる」状態のことです。

神様の支配のことを、人間の支配と比べて考えてしまいがちですが、まったく違うものであることを知っておきたいと思います。

神の統治、神の支配とは、神のいつくしみと平和がすべてを覆う状態のことです。もちろん、今この世界では実現はしていませんが、イエスの復活によってそれはもう始まっているのです。神様はこの世界をその全能の力によって収め、支配し、計らい続けておられます。神様の恵みなしにはわたしたちの世界は存在しえないことをもっと意識したいのです。それは世界が神様によって「操られている」のではなく、この世界に住む私たちが、神様の恵みによって立っている、ということなのではないでしょうか。

それを恵みとして、良いものとしてとらえることが出来るのも、いただいた「信仰」の力によるのです。神様が支配しておられるこの世界、けれどそこには不幸も、苦しみも存在しているのです。わたしたちにはわからないこれらの不幸、苦しみ、悪の神秘は、わたしたちをさらに神へと導くものであるはずなのです。

だから、「天の国」「神の国」のたとえは、わたしたちが目に見えるものを通して神様の力のダイナミズムを知ることが出来るようにと、話されるものなのです。わたしたちはイエスのたとえを心にとめつつ、そこに働かれる神の力の大きさを知り、その中にわたしたちも生きていることを確信します。その時にこそ、「神の国のことを学んだもの」となることが出来るのでしょう。それを知った人は、何を捨てるべきか、何を持っていなければならないかを知っているからです。



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