主日の典礼 2020年
5月3日 復活節第4主日
ヨハネ10章1~10節
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。(10章3節)
わたしの名前をイエスはよくご存じなのだと思います。名前だけでなく、わたし自身のこともよくよくご存じなのです。そうは言っても、イエスはそのことをわざとらしく言い立てるようなことはなさいません。もちろん、わたしたちのように、知っているからと言って、勝ち誇ったり、優位に立っているということとは無縁です。
名前をご存じなのは、わたしを知っているのは、わたしを抱き上げ、名前を呼び、一緒に歩こうとなさるからです。そこには、自分のことではなく、羊(わたしたち)のことが中心になっています。
どんなことにも真剣に取り組まれていたイエスですから、わたしたちの名前を呼ぶときも、心を込めて呼んでおられるのだと思います。
復活節第四主日は、「世界召命祈願日」になっています。良き牧者イエスのイメージは、司牧者のイメージにも重なり、わたしたちを導く多くの人びとがこの「牧者」という呼び名で呼ばれます。けれど、本当の牧者はイエスただ一人なのです。わたしたちはついつい、地上の誰かを「牧者であるイエス」と勘違いして、その人のことを偶像(アイドル)扱いしてしまいます。それは勘違いですが、よくある間違いでもあります。
イエスは、わたしたち一人ひとりの名前を大切に呼び、わたしたちをよくよく世話してくださっているのです。わたしたちが地上の何かに気をひかれ、目をとめたとしても、それは地上の「何か」でしかありません。本当に名前を呼んでくださっている方に信頼して、歩んでゆくことが出来ているでしょうか。
5月10日 復活節第5主日
ヨハネ14章1~12節
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(14章6節)
わたしたちの修道会を創立したのは、御存じの通り、福者ヤコブ・アルベリオーネ神父です。彼はそのほかに修道会・奉献生活者会・協力者の会を創立しました。これは「パウロ・ファミリー」と呼ばれ、全世界に広がっています。
彼がその霊性の中心としたのは、「道、真理、いのちである師イエス」です。この「教師であるイエス」を全世界に告げ知らせるために、各修道会、協力者たちは、日々みことばに生き、伝え、歩んでいきます。それはわたしたちの修道会にとっては、「師であるイエスが生きている聖体、教会、司祭に仕える」形の使徒職を通して実践されます。それは「師であるイエス」に従う弟子の歩みです。
弟子の特徴とは、今日の福音にあるように、「道、真理、いのちであるイエス」に付いて行くことです。ただ付いて行くだけではなく、先生のするとおりにしたいと思うのが弟子でしょう。先生の言葉、動作、態度、教えに学び、それに付き従ってゆくのが弟子の姿です。わたしたち師イエズス修道女は、そんな弟子でありたいと考え、唯一の師であるイエスに付き従っています。
イエスの示された道はただ一つです。それはイエスが歩まれた道、御父のために自分自身を奉献し、いのちをささげた道。その道以外に御父のもとに行くことはできないのです。 もちろん簡単な道ではないことを知っています。一人ひとりが弱く、限界のある人間で、互いに忍耐し、受け入れあうことによって、一歩一歩進んでゆくのです。
今日読まれる福音は、イエスが最後の晩餐の時の説教という形で、彼の教えの集大成をのべている箇所です。イエスの教えは「新しい掟」としてわたしたちに示されています。わたしたちはその掟を大切にし、実行できるように招かれているのです。みことばを深く味わい、その力を願いながら、今日を聖化することが出来ますように。
5月17日 復活節第6主日
ヨハネ14章15~21節
父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。(14章16節)
いよいよ復活節も終わりに近づいてきました。もう来週は「主の昇天」です。この復活節は、おそらくまだ「新型コロナウィルス」の影響が強く残っている日々、あるいは、いまだその脅威にさらされているのではないでしょうか。
このような感染症の蔓延は、過去にも多くあったと聞いています。ペストやコレラ、ジフテリア、ポリオなど、もうずいぶん昔にはやった病気のように思っていたのですが。
けれど、21世紀になっても、新しい病気として、人々のいのちを脅かすものが現れています。このようなウィルスの発生、感染症の蔓延は、わたしたちの信仰を弱める者なのでしょうか。いいえ、決してそうであるはずがありません。絶望的な状況があったとしても、神様は、わたしたちの救いのために働き計らっておられます。それを信じて希望を絶やさず、歩いて行けますように。
集会の自粛が呼びかけられ、教会も多数の人が参加する感謝の祭儀を自粛することになりました。わたしたちに呼び掛けられる神の声は、様々な人の思いを乗せて、世界中に広がり、「それでも希望がある」と励まし続けておられます。
神からのメッセージというと「天使」が想像されますが、それよりも重要なのは聖霊だと思います。御父が使わされる「弁護者」「協力者」は、聖霊です。聖霊は三位一体の神の一つの位格であり、わたしたちと共にいてくださる方です。聖霊というと、何か「スピリット」「霊」「ゴースト」というものとごっちゃにしてしまいそうになるのですが、聖霊は神です。聖霊は恵みそのもの、神のいのちのたまものです。
わたしたちはその聖霊である神を受けたのですから、それにふさわしく互いに「大切にする」ことを続けてまいりましょう。どんなに困難な状況にあっても、神様がわたしたちを見捨てないこと、そのしるしとして、聖霊はわたしたちのもとに来られるのです。来週の主の昇天の福音でかたられるように、まさに「世の終わりまで」共におられる神こそ、わたしたちを導く聖霊なのです。
5月24日 主の昇天
マタイ28章16~20節
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28章19~20節)
マタイ福音書の最後は、この力強い派遣のことばで終わっています。以前お話したことがあるかもしれませんが、ローマにあるグレゴリオ大学の生徒たち(神学生や修道者も)が朝のミサをささげていた本館の聖堂には、この言葉が書かれていました。カトリック大学の名門の自負からでしょうか、ギリシア語で書かれていたので、とてもよく覚えています。イエスがギリシア語で話された、というのではなく、その当時の公用語としてのことば(今でいう英語)としてのギリシア語です。多くの人に告げ知らせるのだ、という福音記者や当時の信徒たちの熱意がこもっている言葉ではないでしょうか。
みことばは、わたしたちを動かし続けます。イエスの復活の後、うろうろとしていた弟子たちも力強い主のことばに励まされ、次第にこれからが大切だ、という気持ちが高まってきたことでしょう。
そんな気持ちに水を差すように、主イエスは昇天してしまいます。「主よ、一緒にいてくださらないのですか」というつぶやきが聞こえるようです。
わたしたちも、今ここにイエスがいてくださったら、奇跡を起こしてくださったら、力強い言葉で反対者に対抗してくれたら、と思ったことが幾度もあります。様々な困難を抱え、苦しむ人々を直接救ってくださったら、といつも思います。
けれどイエスはそこに現れません。いいえ、現れているのですが、わたしたちは気が付きません。イエスの手は、足は、ことばは、わたしたちを通して現わされているのです。そこに実現しているイエスとは、人間、キリスト者を通してなのです。
あまりにも拙く無力なわたしたちですが、イエスの力が十分に発揮されるためには、その方がよいのです。わたしたちの能力や才能、お金、そのほかの人間的なあらゆることに頼ることなく、イエス自身が働かれるように、わたしたちは自分を超える力にゆだねてゆかなければならないのでしょう。
「ゆだねる」力、主の昇天は、無力で、不確かな存在である人間を今一度意識させる時だと思います。
5月31日 聖霊降臨の主日
ヨハネ20章19~23節
(イエスは)彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」(20章22節)
聖霊降臨の祭日に歌われる「聖霊の続唱」は、聖霊のさまざまな恵みを表す言葉が続きます。
「貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方……」
皆様はどの言葉に心をとめられますか。
わたしにとっては、「ゆるぐことのないよりどころ」である方が聖霊です。わたしたちはいつも何かしら寄りかかれるようなものを求めてしまいますが、人間にそれを求めても、残念な結果になることが多いのです。けれど、聖霊なら、どんなときにも助けてくださる、ということがわかります。
いろいろな場で話さなければならない時、聖霊はわたしを本当に助けてくださいます。出来ないなあ、と思い、いやだなあとつぶやく時、自分の力が本当にないと思うとき、聖霊の力は働きます。けれど、自分が出来るのだ、と考えていると、聖霊は助けてくれません。 自分勝手な思いで動こうとするとき、自己中心な考えで、偏見にとらわれているとき、そんな中には聖霊の働くところはありません。
「固い心を和らげ、冷たさを温め」ることもとても大切だと思います。偏見や固定観念に縛られた「固い心」と、自分と違う人に対する「冷たい心」を癒していただけたらと思います。
実のところ、「聖霊、働くの遅いやん」と思うときはしばしばです。ローマで勉強させていただいていた時、7年目にして、ようやく言葉が分かったなあ、と思いましたが、聖霊働くの実に遅い……、と考えるのは人間の勝手な感想なのです。ほんとはずっと働いていたのに、「ちっともわかってないよ、お前さん」と言われているのかもしれません。解るとか解らないからではなく、いつも働いてくださっている聖霊に信頼しつつ、十分に頑張って、でも頑張りすぎないで、日々を過ごしてゆくことが出来れば、と思います。