主日の典礼 2020年

3月1日 四旬節第1主日 
マタイ4章1~11節 

 イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」(10節)

 四旬節の第1主日は、いつも「荒れ野でのイエスの試み」の場面です。

 イエスは神様ですから誘惑も、罪へのいざないも何もなかったと考えることはできるのでしょうか。

わたしは、そうは思いません。イエスは人間、人として様々な試みに合われたと思います。もしかしたら、もう少しで神様を裏切るような羽目になったことがあったかもしれません。もちろん、イエスは罪を犯さなかったので、そういったことには誘われても陥らなかったでしょうけれど、それだからこそ、試みや誘惑はさらに強かったのではないでしょうか。

 そんなイエスの現実は、宣教活動を始める前に、はっきりとあらわされています。イエスは荒野で真剣に神である父に祈ったのではないでしょうか。これから始めようとする道は険しく、様々な困難が待ち受けていることを、イエス自身が理解していたと思います。その活動を始める前に、御父の助けを祈り求めたのでしょう。それなのに、修行の最後にやってきたのは、悪魔からの誘惑でした。

それぞれの誘惑は、人間がだれしも経験するものです。
「お金があればおいしいものを食べれるのに」
「こんなに祈っているのに神様は、願いを聞き入れてくださらない」
「ちょっとだけでも人がわたしを認めてくれるなら、どんなに満足できるだろう」
そんな風に思うのは、決しておかしなことではないと思います。けれど、イエスはその「普通」の願いさえも、御父の心と対立するものとして退けます。イエスに対する悪魔の誘惑は巧妙で、本当に弱いところを突いてくるものです。わたしたちもそんなことを体験したことはありませんか。

 理想は理想で現実とは違うのだ、と思うようなこともあるかもしれません。けれど教皇フランシスコが述べられたように、本当に大切なことはしっかりと主張しないと伝わらないのです。そこでうやむやにしてしまうなら、キリスト者としての道を表していることにはならないのです。

多くの人が、仕方がないからと世の中の「悪」に妥協しようとも、イエスの歩まれた道を進もうと決心したなら、その「悪」を捨てなければならないのです。目標と手段を混同することなく、本当に大切なことを求めてゆくことが出来るよう、始まった四旬節を聖化できるようにお祈りいたしましょう。


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3月8日 四旬節第2主日
マタイ17章1~9節


イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。(7~8節)

 四旬節の第2主日は、毎年「主の変容」の場面です。今年はマタイ福音書の場面が読まれます。四旬節の初めにこの箇所が読まれる理由として、様々な困難に会う日々の営みであっても、神がイエスの栄光を表して、力づけてくださる、という意味があるように思います。わたしたちのつたない歩み、弱くてもろい心と体、どんなに髪に立ち返ろうとしても、弱さゆえに繰り返してしまうあやまち。そんな現実にあっても、神があらわすイエスの栄光は、復活のイエスの栄光であり、また、わたしたちに約束された神のいのちの栄光の輝きなのです。

 わたしたちは困難に出会うとき、自分の置かれた閉塞的な状況を嘆き、自分であがいても解決が付かないことがほとんどです。それでも前に進んでいかなければならず、苦しい、苦しいと歯ぎしりしながら歩むのではないでしょうか。病気や災害、人に騙されたり、誹謗中傷を受けたり、自分が招いたあやまちで他の人を苦しめることになったり、家族の苦しみを見守ることしかできなかったり。わたしたちを取り巻く状況は、多くの場合どうにもならないのです。自分が招くだけでなく、どこにも怒りをぶつけられないこともあります。それでも希望を持ち続けられるでしょうか。神様は、そんな時にも、どんなときにも、「決してあなたを見捨てない」といってくださいます。どんなときにも、信頼し続ける忍耐と希望を恵として願います。高い山に登って(おそらく弟子たちもへとへとに疲れたことでしょう)想像もつかない体験をする、そんな弟子たちはうろたえ恐れました。けれどもその体験の記憶は、イエスの復活とともにゆるぎない希望となっていったことでしょう。そんな希望を、わたしたちも持つことが出来ますように。


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3月15日 四旬節第3主日
ヨハネ4章5~42節


イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。(6~7節)

 イエスは旅を続けておられます。簡単な旅ではありません。あちこちを放浪し、人々を教え、病人をいやし、苦しむ人を慰める、疲れる旅が続いていたのでしょう。そして、このサマリアの町で一人の女性に出会います。彼女は、正午ごろに水を汲みに来ます。それは当時の習慣からはおかしなことでした。水は一日の初めに汲むものでしょう。正午、人が外に出歩かない頃に水を汲みに行くのは、やはり人と顔を合わせたくない理由があったのでしょう。そんな女性にイエスは声を掛けられたのです。

  イエスには、様々な出会いがありますが、女性に声を掛けられたことが福音書には何か所も出てきます。出血の続く女の癒し、ナインのやもめを慰めたこと、罪深い女へのゆるしのことば、マルタへのことば、ラザロの姉妹たちとの会話、子犬扱いされたフェニキアの母親。彼女たちはそれぞれの人生で、イエスと出会い、イエスに様々な形で癒されました。今日のサマリアの女性も、はじめはイエスのことを受け入れようともしない態度の彼女が、イエスと出会い、言葉を交わすことによって、まさに劇的に変化してゆきます。わたしたちはそれをあまりにも冷静に読み飛ばしてはいないでしょうか。

  わたしの人生でのイエスとの出会いを、もっと大切に思い起こしたいと思います。あの時、わたしに触れたのはイエスだった。言葉を交わしたのはイエスだった。わたしを導いたのはイエス自身だった。

 本当に人と人とが出会うことは、その人生を変容させる大きな力、エネルギーになります。どんなことがあっても、そのことを思い起こすたびに、前に進んで行ける、そのようなイエスとの出会いを皆様も体験しておられるでしょう。その宝物をサマリアの女性もいただきました。復活祭に洗礼を受けようと準備しておられる方も、イエスと出会い、イエスに触れていただいたのです。どうかその体験によって、信仰生活がさらに豊かになりますように。


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3月22日 四旬節第4主日 
ヨハネ9章1~41節  


「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」39節

 「見える者」「見えない者」とイエスが言われるのは、だれのことかもうお判りでしょう。ファリサイ派の人々が、「生まれながらに罪のある者」と決めつけた「見えなかった人」こそ「見える者」となり、「モーセの弟子」「教える立場」にあるファリサイ派の人々が「見えない者」なのです。

  自分が見えていると自覚があるからこそ、きちんと見えているものが、実はゆがんでいることに気が付かないでいます。全く見えていない、あるいは、よく見えないでいると自覚していると、しっかり見ようとするか、ほかの方法で理解しようとします。そんな時、真実のものが見えるようになるのではないでしょうか。

  すべての勉強に百点を取ることでしょうか。どんな事業や仕事を任されても素晴らしい成果を上げ、成功することや、素晴らしい配偶者、子供、家族を得、お金持ちで、人から尊敬され、絵にかいたような幸せを実現することでしょうか。あるいは、どんな人からも好かれ、良い人だとみとめられ、だれからも親切にされるような人のことでしょうか。

 現代の日本では、価値観が多様で、なんでもありの社会だといわれます。とはいえ、社会はその価値観の豊かさゆえに余計にぎすぎすしているような気がします。子供の「いじめ」や、会社でのパワーハラスメント、ネット上の誹謗中傷や、相手の悪いところだけを決めつけて排除しようとする姿勢、ヘイトスピーチ、日本にいる外国人への差別と搾取。様々な面で「多様化の宝」を失い、自分以外のものを排除する姿勢になってしまっているのかもしれません。弱い人々(高齢者、障がい者、子供、ホームレス、貧困者、外国人)を排除し、自分は「大丈夫」だという「見える価値観」に支配されているわたしたち。そんな「見える者」への厳しい言葉をイエスが発せられるとき、わたしに言われているのだと感じます。

  すべての人が人間らしい豊かな生活を送ることを、人類はまだ達成できていません。本当に平和を望んでいるなら、すべての人の人権を守り、豊かに生活できるよう、そして、たいせつな地球を破壊することのないように、心を込めて生き、働き、福音に生きてゆかなければならないと思います。


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3月29日 四旬節第5主日  
ヨハネ11章1~45節  


「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(25~26節)

「決して死ぬことはない」ということばに、わたしはたじろいでしまいます。本当にそうなんだろうか、信じているといいながら、こんな疑問がわいてきます。わたしの信仰は、イエスの復活を信じているといいながらも、自分が「死なない」ことを信じ切れていません。肉体の死や、体の復活、永遠のいのちということばの向こうにある者を信じ切れていない弱いわたしです。

   死に伴う様々な苦しみや痛みも、正直怖いと思います。親しい人との別離の寂しさ、今まで持っていた有形無形の自分の「財産」を手放さなくてはならないことなど、死は、わたしたちを絶望へといざないます。 けれども、その絶望を超えるものがあるのです。わたしたちの主イエスは、死を乗り越え、復活のいのちを示してくださいました。わたし自身の死を受け入れることは、イエスの復活のいのちに生きる、ということを受け入れることだと思います。どんなに苦しくても、絶望に見えたとしても、そこには復活のいのちがあるということを、改めて今日の福音「ラザロの復活」の場面は伝えているのではないでしょうか。


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