主日の典礼 2020年
2月2日 主の奉献
ルカ2章22~40節
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(2章29―30節)
「主の奉献」の祭日は、以前は、「聖母マリアの御清め」と呼ばれていたそうです。また、教会で使われるろうそくを祝福する日でもあったそうですが、今ではその習慣も行われることは少なくなりました。
また、世界の教会では、この日を「奉献生活者の日」として祈りをささげ、新しい召命のために祈る日にもなっています。主がささげられたことを記念する教会とともに、わたしたち自身もミサの中で神に自分自身をおささげする心を新たにいたしましょう。
「奉献」とは、イタリア語では「presentazione」といいます。これは、主の前に自分自身を提示するという意味があるようです。日本語では「捧げ奉る」という意味の「奉献」ですが、何よりも「神への奉献」であることを意識したいと思います。
神様にものを捧げるとはどんな意味を持つのでしょうか。古代イスラエルの社会では、「全焼祭の捧げもの」といわれるいけにえがありました。新共同訳では「焼き尽くす捧げ物」と呼ばれているものです。
「その雄羊全部を祭壇で燃やして煙にする。これは主にささげる焼き尽くす献げ物であり、主に燃やしてささげる宥めの香りである。」(出エジプト記 29章 18節)
それは、いけにえのすべてを焼いて一切残さないというもので、すべてを余すところなく神にささげるという行為です。わたしたちの主イエスの奉献もその通りであったことを思い起こしましょう。イエスの十字架上の奉献はもちろんそうですが、その生涯の日々の奉献もすべてを御父に明け渡すことでした。
無論、人間の力で、そのようなことが成し遂げられる、とは思いません。イエスもすべてを御父へと捧げることを人間として学んで行かれる日々であったでしょう。わたしたちは、毎日を神様に向かって歩んでゆくとき、少しでもイエスに倣い、そして少しでも御父に従っていけるよう希望をもって信じ続けたいのです。
例えば、どうしようもない自分の弱さに辟易したとしても、神様はそんなわたしたちを見捨てることはない、と信じ続けられるように。あるいは、もう繰り返さないと誓ったことを、また行ってしまい、自分に絶望したくなる時すら、神様はわたしを愛してくださると信じるように。
多くの場合、わたしたちは自分自身に絶望し、早々と見限って、神様のほうに行くことをあきらめてしまうのです。けれど、そんなわたしたちを神様は、いつも必ず見て、呼びかけてくださっているのです。弱いわたし、つたない、みじめな、どうしようもないわたしを、神様が必要とされていることを信じ続けることが出来ますように。
2月9日 年間第5主日
マタイ5章13~16節
「あなた方は地の塩である。……あなた方は世の光である」(5章13―14節)
イエスの山上の説教が読まれています。マタイによる福音の最初の長い教話です。わたしたちは、「地の塩」といわれて何を考えるでしょうか。塩というのは、料理に欠かせないものですし、味を決める決め手になるものだと思います。とはいえ、塩を入れすぎると、まずくて食べられないものになりますし、足らなくてもおいしい料理にはなりません。
イエスは、わたしたちに「地の塩となれ」といわれているのではなく、「塩である」と断定されています。これは考えてみればすごいことではないでしょうか。わたしたちの存在そのものが、もう、地における塩味になっているということです。ものに味をつけ、しっかりと保存することに必要だったりする塩、その特徴は、目に見えないことだと思います。塩が塩であるとわかるのは、まだものに混ざらない時の白い粒粒の時です。味をつけるのに混ぜてしまえば、それは形を失い、どこかに行ってしまいます。それなのに、物には味が付いているのですから、塩は、自分の存在を消して物を生かそうとしているようです。
そんな風になれたらいいなと思います。わたしたちの存在、それがどこかに消え、そこに残るのはイエスの味、そんな風になれないでしょうか。自分の味ばかり優先させてしまいがちな、わがままで自己中心なわたしですが、しっかりと、イエスに味付けされてこそ、ほかの者にも味をつけることが出来るのかもしれません。
いいえ、もうしっかりと味をつけられているはずです。なぜなら、「塩である」ことはイエスがわたしたちに求めていることではなく、その存在そのものが、「塩である」と言い切られているからです。わたしたちの存在は、イエスにもう味付けされたものでしょう。それを忘れることのないようにしたいと思います。
2月16日 年間第6主日
マタイ5章17~37節
「あなたがたも聞いているとおり、……。しかし、わたしは言っておく。」
今日読まれる福音の箇所で、この繰り返しは三回あります。繰り返されることによって、律法の掟の本文と、イエスの教えの新しさが際立ちます。この教えも「山上の説教」の一部ですから、イエスが新しい律法を与える新しいモーセということを示しているようです。
様々な掟によって、当時の人びとは縛られていました。本当は、掟とは人を束縛するものではなく、より自由に生きるためのものだったのですが、時代が下り、イエスの活動していた時代には、掟を守ることがすなわち神の道だ、という考え方だったのです。だから掟を守れない人は、即、罪人であり、神の道から外れた人になります。守ろうとしても守れない人々がたくさんいたのですが。
たとえば、安息日に仕事をしなければ、家族を食べさせることが出来ない人がいました。また羊飼いたちは荒野にいましたから、安息日の規定も守れないし、いろいろな汚れを身に負っていたことでしょう。そのような人々は、決まりを守って立派に生活している人からすれば、罪人であったのです。
教会に来ない人を批判したり、あきらめたりする前に、わたしたち一人一人が、その人の親しい友となるために、何ができるか考えてみたいと思います。少なくとも、多くの人のために祈り続けること、神様のことを忘れず、いつも神様が一人一人を見守って愛してくださることを伝えることが出来たらと思います。
「神の掟」が神の道から離れ、人間の決まりごとになってしまえば、「守る」か「守らない」かだけが起きての中心になってしまいます。そして、その掟と決まりにあわせて、人を裁いてしまうのです。「あの人は守らないから、罪人だ」と。
それは現代の教会にも当てはまることです。多くの人が固く冷たい教会の決まりごとに疲れ果て、教会の中に入れないということはないでしょうか。遠くから見つめている人々、入ろうとしても入れない、または入らせないことはないでしょうか。わたしたちは、そのような垣根や固く閉じた扉で、自分を守ってはいないでしょうか。もしかしたら、さっきであった人が、あなたの笑顔を待っていたかもしれません。教皇様の呼び掛けておられる「喜び」の福音を、わたしたちももたらしてゆくことが出来ますように。
2月23日 年間第7主日
マタイ5章38~48節
「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」48節
完全な者にはなれない、ということは分かり切っています。本当に完全な方は神のみです。わたしたちは、そんな方のほうを向いて歩み続けなければならないということなのですが、完全になれない、到底実現できないことを目標にするのは、少しいやな気がします。しかも「完全な者となりなさい」といわれたのは、人間の中でも最も完全なイエス自身ですから、まじめに考えれば、ちょっと、いいえ、大変がっかりします。こんな努力目標って有りでしょうか。
本当に完全なことというのは、どんなことなのでしょうか。
すべての勉強に百点を取ることでしょうか。どんな事業や仕事を任されても素晴らしい成果を上げ、成功することや、素晴らしい配偶者、子供、家族を得、お金持ちで、人から尊敬され、絵にかいたような幸せを実現することでしょうか。あるいは、どんな人からも好かれ、良い人だとみとめられ、だれからも親切にされるような人のことでしょうか。
そうでないことは、皆様、お分かりのことだと思います。いくら現実の世界で成功をおさめ、人から羨まれる生活を実現させても、それは一時のことかもしれません。病気や事故、災害、戦争、あらゆることはわたしたちの手には負えない事であり、いつやってきてもおかしくないのです。
それに加えて、人間はかならず「死」を迎えます。これはどんな英雄であれ、王様であれ、お金持ちであれ、貧乏な人であれ、幸せな人、不幸な人であれ、賢くても愚かでも、逃れることのない現実です。今まで、死を逃れた人はないのです。復活し、神のいのちに生きるのは、イエスただ一人、わたしたちはそのいのちを望んでいるのです。
本当に完全な人というのはイエスただ一人、御父のように完全なのはイエスだけでしょう。ですから私たちはイエスを目標とするのです。その言葉と行い、愛の技を実践すること、イエスのように考えて行動することを選び続けるのです。それは「選ぶ」ことにおいて、「完全な人」と近くなることでしょう。失敗するのです。結果は惨憺たるものになるのでしょう。それでも、イエスの行動、思い、言葉を選び続けること、そのような「タフ」な人生を送ろうとするとき、「完全な人」であることを求めているのではないでしょうか。
2月26日 灰の水曜日
マタイ6章1―6、16―18節
暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。(16節)
四旬節が始まります。わたしたちの信仰生活にとってとても重要な時期であること、一年の内で、豊かな恵みを受けるとき、そして、自分の殻から出て、愛を実行するよう努めるときです。
教会はこの四旬節に勧められる行動を「祈り・節制・愛のわざ」と表現します。
「祈り」とは、教会の典礼の深みにまで降り、日々の祈り、ミサを大切にしてゆくこと、またゆるしの秘跡にあずかるよう勧められています。
「節制」とは、いろいろなものを我慢したり、食事を絶つことではなく、何らかの痛みをもって捧げることだと思います。とっても好きな食べ物を我慢することはむつかしいですし、毎日お茶を飲まないとおちつかない人がそれをささげるのは大変なことだと思います。でも、それをして初めて、いろいろな人の苦しみを分かち合えるのではないでしょうか。
「愛のわざ」とは、わたしたちが小さな捧げものをすることによって、愛を実践することです。四旬節の愛の献金は、これを具体的に形にしたものです。その献金も単に持っているお金を出して終わりなのではなく、断食や節制をしたときに少しずつ集めたものをおささげすることが大切なのではないかと思います。
本当に大切なことは、どれくらいするかではなく、どのような心で行ったか、でしょう。ファリサイ派の人が「自分たちは頑張ってやっているんで、どうだ、大したものだろう」と考えてしまったようなことがわたしたちの心に芽生えたりしませんように。そして、その四旬節の務めを務めとして行うのではなく、本当の喜び、主の復活を心から待ち望み、そのために自分の生き方を愛のほうへ、神様のほうへと向けるために行うものでありたいのです。
どうか良き四旬節をお過ごしください。そして、主の復活を待ち望む多くの人、特に苦しみのうちにある人、洗礼を待っている洗礼志願者の方のためにもお祈りいたしましょう。