主日の典礼 2020年

4月5日 受難の主日 
マタイ26章14節~27章66節 

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(26章26-28節

 毎日曜日、教会での聖体祭儀が行われることが当たり前になっていますが、この三月、新型コロナウィルスのために、教会に集まることを自粛することになりました。この文を読んでいるころには、どうなっているでしょうか。感染症の広がりが抑えられているとよいのですが。

 わたしたちが聖体祭儀の間に記念するのは、イエスの十字架の奉献です。それはイエスの死と復活の過ぎ越しの神秘です。とはいうもの、わたしたちはどれほどその偉大さを知っているでしょうか。

「からだと血」という生々しい表現で、わたしたちにそれを記念するようにと残してくださったことは、まさに十字架の神秘です。わたしたちはこの神秘があるからこそ、あらゆる痛みや苦しみが、決して無駄に終わることはない、神の愛のうちに昇華され、復活の神のいのちに至るのだ、と知っています。どんなに苦しくとも、絶望のように見えていても、それを上回る神のいつくしみは、わたしたちをいのちへと導くのです。それが表現されるのが聖体祭儀なのです。

 何度も、何度もミサにあずかって、御聖体をいただきます。時にはぼうっとして、気を散らしたり、ほかのことに気を取られたり、姉妹とのやり取りで苦しかったり、腹を立てていたり、落ち込んでいても希望にあふれていても、なやんでも、苦々しく感じていても、イエスはわたしたちのために十字架にかかり、いのちをささげてくださっています。その神秘を、今日から始まる聖週間中、深く感じ祈り分かち合うことが出来ますように。


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4月12日 主の復活
ヨハネ20章1~9節


イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(9節)

 御復活祭、おめでとうございます。

 この頃は、いろいろな店舗でも「ハッピー・イースター」と書かれたカード、ウサギや卵、イースターグッズなどを見かけるようになりました。イタリアでは、「イースターエッグ」(チョコレートで作った大きな卵で、中におもちゃが入っているもの)も見かけます。

復活祭に卵を食べたり贈ったりするのは、昔から恒例とされていますが、これは古代から卵が死と再生のシンボルとして認知されていたことからのようです。教会も、卵をイエス・キリストの死と復活のシンボルとして特に復活祭の時に贈り物にしたり、食べたりしたようです。わたしたちも、教会で「復活祭の卵」を祝福してもらい、持って帰ります。卵やウサギ、ひよこなどのモチーフは、春を迎える復活祭にふさわしく、明るく、華やいだ感じです。ピンクやクリーム色など、春の生き生き畏したイメージを表しているかのようです。

とはいえ、復活祭は日曜日だけに祝われるのではありません。日曜日は、前晩の「復活徹夜祭」からともに典礼にあずかることによって、さらに重要な祝日であると感じることが出来るでしょう。わたしたちは、幸いにも第二バチカン公会議後の典礼刷新によって、この重要な「過ぎ越しの聖なる三日間」を積極的に典礼に参加することが出来るようになりました。に復活祭の日曜日だけで復活祭が終わるなんて、なんだかとても残念です。「過ぎ越し」の神秘は、体験することによってより深くわたしたちの人生、日常にかかわってくるのではないでしょうか。

今朝の福音のように、絶望して墓に行ったマグダラのマリアや他の婦人たちの驚き、ペトロたちの不安や焦りを自分のこととして感じるときはなかったでしょうか。わたしの人生のあの時、お墓に言った婦人たちの気持ちにあってはいませんか。あるいは、イエスの遺体がないと騒いで走っていった、マリアや弟子たちと同じことを体験したことはなかったでしょうか。

そんな日々は確かに、どこかであったはずです。そんなわたしにイエスは「マリア!」と声をかけてくださったのではなかったでしょうか。

わたしたちの復活体験を、ゆっくりとしみじみと味わうことが出来ればと思います。そしてその体験を分かち合い、多くの人と一緒に、「わたしは主を見ました」ということが出来ますように。


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4月19日 復活節第2主日
ヨハネ20章19~31節


「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)

 「信じる」という行為は、実に難しいことだと思います。目に見えたことは信じる必要がないのです。けれど現代のわたしたちは、実際に目で見えることがあまりにも多すぎて、見えない物のことにまで気を配ることが出来ません。テレビやコンピューターの動画でどんなにたくさんの情報と「事実」があふれているかは、御存じのとおりです。メディアはこれでもか、これでもかと情報を流し、わたしたちの知識を増やし、事実が積み上げられていきます。それは良いことなのでしょうか。

  まったく情報もなく、不安に駆られることがありますが、情報が多すぎて、何が正しいのかわからなくなることもあります。現代のわたしたちは情報過多の世界で、その流れをどのように泳ぎ切ってゆくのかが問われているかのようです。

 トマスはわたしたちです。目で見なければ、触らなければ信じ切れない。ありとあらゆる情報をたくさん聞き、読み、知ることだけで、「真実」に迫ることが出来ると考えている現代の人びとと同じでしょう。情報は「事実」のあらゆる面を教えてくれるものですが、「真実」に迫ることが出来るのは、一人ひとりの人間でしょう。トマスの疑いや疑問は、現代の人びとの疑問であり疑いです。イエスが今ここにいて、奇跡をしてくれたら信じるのに、といっているのと一緒です。

 けれど、イエスはそんな「インスタントな奇跡」は一切なさらないのです。本当にそうです。それは、絶望にいざなうような、神様からのチャレンジです。どんなに苦しくとも、また、絶望しそうになったとしても、神様はわたしを見捨てていない、と真実はただ一つだけなのです。イエスの前に「信じます」と言ったトマスの行動をわたしたちも自分のものとしたいと思います。


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4月26日 復活節第3主日 
ルカ24章13~35節  


「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)

 エマオの弟子たちの話は、とても心惹かれる復活体験です。弟子たちはそうとは知らないまま、イエスの話を聞き、心を燃え立たせることが出来たのです。わたしたちもイエスのことばを聞くとき、そして御聖体としてイエスを食べるとき、あるいは、様々な「物」や「体験」を分かち合い、食卓を共にするとき、イエスがそこにおられるということを信じます。

 弟子たちのように「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と、あとから気が付くのですが、それも大切なことでしょう。全く気が付くこともなく、イエスと出会っていたかもしれないのです。だから、みことばと聖体の両方の食卓を大切にしたいものです。感謝の祭儀は全体で一つの豊かな典礼行為です。聖体だけが重要なのではなく、みことばも重要ですし、そこに多くの人と一緒に参加することが大切なのです。エマオの弟子たちは二人でした。一人きりで主に出会ったのではありません。また、ただ歩いているときにあってもわからなかったのです。主を家の中に迎え入れ、一緒に食卓を共にしたとき、主であることを知りました。愛の行動があるとき、かたくなな、みじめな、絶望した心が、希望へと向かうことが出来るのです。

  エマオの弟子たちに倣いつつ、今日の一日を歩いてゆくことが出来ますように。

 

  


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