主日の典礼 2020年

11月1日 諸聖人 
マタイ5章1~12a節

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。(5章1~2節)

今日は「諸聖人」の大祭日です。聖人とはどんな人なのでしょうか。わたしたちに先立って、多くの人びとが信仰の証を立てましたが、聖人とは彼らのことです。その中には「血」をもって証を立てた殉教者たち、信仰を人々に告げ知らせ、神様のことを豊かに書き表した教会博士、あるいは、ありふれた一生を送りながら、その生涯によって神様を表した証聖者たちが教会には多くいます。

 わたしたちもこの道に招かれていることは、「カトリック教会のカテキズム」でも述べられています。すべての人が「聖人」となるように招かれているのです。「聖人」であるということは、天の国で神様の豊かな命にあずかっているということなのですが、もちろん地上では、そのことはかないません。地上のいのちや生きた道は、天の国での神様のいのちの「影」「うつし」のようなものですから、完全な平和と幸福は、神様のもとに行くときまで、実際には実現されないものです。

それでも、この地上にあってもわたしたちは神様の愛や、イエスの幸いを感じることも出来ます。本当の幸いは神様のもとにある、と知っている人だけが、この地上でも幸いを見出すことが出来るのだと思います。

 今日の福音では、いわゆる「真福八端」と言われる八つの「幸い」についてイエスが語られる場面です。多くの人びとに向かって語られたこのことばは、「山上の垂訓」と呼ばれる長い説教の冒頭の部分です。

「山に登り、腰を下ろし」たイエスの姿は、イスラエルの民が誰でも知っているモーセの姿を彷彿とさせるものでした。モーセは、神の山ホレブから、民に向かって神様のことばを伝えました。イエスも新しいモーセとして、人々に神様のことばを伝えます。それは「幸いの知らせ」「福音」でした。多くの人びとを前に、イエスの幸せは世の中の常識を超えて語られます。「貧しい人」「悲しむ人」「迫害される人」など、抑圧され、人間としての尊厳を奪われた人々のことを語られます。彼らが「幸い」だなんて…。

人間として生きる権利を奪われた人々が「幸い」なのではありません。それは人間が人間を抑圧している悲惨な状況であり、人々はそんな状況からは解放されなければなりません。イエスの言う「幸い」は、自らの貧しさに嘆き、自らの苦しみに苦しむ人々を含めたあらゆる人々に向かって、神のいつくしみとあわれみに心を開くようにと呼びかける姿なのです。

わたしたちは神様なしには一瞬たりとも立っていることすらできない、ということを、改めて自覚しましょう。そして、そんな弱い一人ひとりが、互いに助け合って、神の国を目指そうとすることこそが、真の幸いを見つける道なのではないでしょうか。


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11月8日 年間第32主日 
マタイ25章1~13節


十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。(マタイ25章1~2節)

 当時のイスラエルの人びとの婚礼は、大きな宴会が何日も続いたそうです。「カナの婚宴」のエピソードにもあるように、大勢の人々を招き、ごちそうとぶどう酒がふんだんにふるまわれました。日頃貧しい人々も、この時ばかりは楽しみ、楽しみが多ければ、その家族の幸福を多くお祈りするでしょうから、新婚の二人はたくさんの人から祝いと祈りをもらうことでしょう。

さて、イエスのたとえは十人のおとめたちの話です。何度も聞いているように、五人は賢く、五人はおろかだったとあります。賢いおとめたちは良かったね、で済まされることではないでしょう。愚かなおとめたちは、だめだなあ、ではないのです。

わたしたち一人ひとりは、愚かでもあり、賢くもある人間でしょう。「わたしは、完全に賢くもないけれど、とことん愚かでもない」と思っているはずです。

では、このおとめたちのたとえは、何を意味しているのでしょう。眠りこけていたのは賢いおとめも愚かなおとめも同じでした。予備の油を持っているということが、賢いおとめの条件なのでしょうか。

わたしは、「賢い」と言われたおとめたちは、たまたま持っていただけではないかと思います。用意周到に準備し、絶対こうなるはずだから、「予備」を持っていたのではないと思うのです。おおよそ人間のおちいる状況とは、こんなものではないでしょうか。「たまたま居合わせた」とか、「偶然持っていた」とか、「ちょっと気が回った」とか。

だから、「賢いおとめ」たちが「賢かった」のではないと思います。「たまたま」めぐりあわせがよかった、だけなので、「賢かった」と褒められるようなことでもないのではないでしょうか。「愚かなおとめ」も「愚かさ」に埋没しているわけではありません。彼女たちもまた、「たまたま」忘れた、気が付かなかった、だけなのではないでしょうか。

 けれども、それが決定的な違いに結び付くというところが、見過ごせないポイントです。わたしたちの生き方一つ一つが、永遠のいのちに結び付くものであると自覚していても、もしかしたら、「たまたま」だめなことをしていた、ということもあるかもしれません。

本当はどうなのでしょう。わたしたちは、それがいつかは知らないのです。永遠のいのちを迎えるために、何をしたらよいのかは、一人ひとりが真剣に考え、決して「たまたま」忘れていたということにならないようにしたいのですが…。


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11月15日 年間第33主日  
マタイ25章14~30節


『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』(24~25節)

 お金を預かったしもべたちの、主人に向かっての対応に心をとめてみましょう。  あるしもべは、「ご覧ください」と、頑張ったことを誇らしげに報告します。他のしもべはやはりご覧ください」とは言いますが、それは「恐ろしくなった」という理由からでした。

しもべは自分の主人を、どんな主人だと思っていたのでしょうか。彼にとって、主人は怖れ敬うだけの人だったのでしょうか。

「怖れる」ということばは、何を意味しているのでしょうか。ここでは、きちんと儲けたしもべたちと、「怠け者」と言われたしもべとの、主人に対する信頼の違いからくる言葉ではないかと思います。

  主人はしもべたちに「財産を預けた」のです。それは深い信頼と彼らへの期待が込められていたでしょう。二人のしもべは、それぞれに預けられた財産をよりよく活用し、「ご覧ください」と胸を張ることが出来ました。それは、五タラントン儲けたか、二タラントンだったか、まったく増やすことが出来なかったかという量の多い少ないではないことは、五タラントン儲けた人も二タラントン儲けた人も、同じ言葉で褒められているからわかることです。主人の意識は、いくら儲かったかにあるのではなく、どれくらい一生懸命努力したか、です。このしもべたちへの信頼こそが、主人の基本的な態度なのです。

だからこそ、主人が「恐ろしかった」というしもべは、主人の信頼を知らないか、知っていても不安でたまらないか、だったのでしょう。どれくらい信頼して、主人は自分に財産の一部を預けたかを意識していたら、それを大切にすること、信頼にこたえたいと思うことが主人への間と思えるはずでした。

 預けられた財産を隠しておいたしもべは、そのお金が減らなかったから大丈夫だと思っていたのでしょう。けれど、主人は「減ったか増えたか」ということではなく、どれくらい信頼にこたえたか、ということを大事にしているのです。

最後のしもべは、図らずも主人に対する信頼のなさと愛の乏しさを自分で暴露してしまいました。さて、わたしたちはどうでしょうか。謙遜と勘違いして、神様からいただいた大切ないのちと恵を、地面に埋めて努力を怠ってはいないでしょうか。


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11月22日 王であるキリスト  
マタイ25章31~46節  


『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(40節)

今日の祭日は、一年の終わりの日です。来週からは新しい典礼年が始まり、待降節になります。

 一年の終わりの「王であるキリスト」の祭日は、マタイによる福音書では、最後の審判の場面が読まれます。わたしたちも何度となく聞いているところですし、王である方が人間を裁くシーンは、はっきり言って「どうなの?」と思うところでもあります。

わたしは、昔の公教要理をばっちり叩き込まれた人間ではありませんので(つまり、子供のころは、何も知らなかったまま、大きくなりました)、天国、地獄、最後の審判ということばは、大人になってから勉強で習ったことになります。それは、あまり恐ろしくもなく、現実的でもなく、自分がそこに行くことなど考えられないようなところでした。キリスト者の信仰体験として、子供のころ、柔らかな素直な心に教えられた「地獄・天国」の話は、大きくなってもしっかりと影響するのではないでしょうか。それは、たいせつなものであり、決して後から得られるものではないのです。だから、わたしにとっては地獄とは避けなければならないところではあるものの、神様はそんなところにわたしを落とすはずないよ、という「甘い考え」を持ち続けているのです。 それは別に神様を侮っているとか、言うわけではありませんが、むかしからしっかりと要理を叩き込まれた人からすれば、「なにを甘いこと言うてるんや」というようなことだと思います。

とはいえ、王であるイエス・キリストがやってきて、人々を裁くというイメージは、現代社会に「福音」として響くことでしょうか。王であるキリストは、現代社会に本当の喜びを伝えるメッセージを与えているでしょうか。

本当にイエスが「王」であることは、わたしたちにとっては自明のことでしょう。誰よりも、何よりも大切にしたい方、それがイエスご自身であるはずなのです。

そのイエスが、「わたしにしてくれたこと」と言ってわたしたちの行動を見てくださっていることを、もっと大切にしたいと思います。どんな小さなことにも、イエスはそして御父は目をとめてくださっているのだ、と考えるときこそ、わたしの王、わたしの主はイエスであるとはっきりと宣言することが出来るのです。



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11月29日 B年 待降節第一主日   
マルコ13章33~37節  


目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。(35節)

今週からマルコ福音書を中心に読まれるB年が始まります。あっという間に二千二十年も終わりに近づき、あわただしい季節が始まります。教会は待降節、クリスマス、新年と大きなお祝い日が続きます。

今年は、コロナウィルス感染症の拡大で本当にあわただしく、いろいろと大変な日々でした。まだ感染症は収まっていませんし、世界中では拡大しているところもあると聞きます。わたしたちは、他人ごとではなく、自分のこととして、この世界の痛みを感じなければならないのです。けれど、どこか遠い出来事のように感じ、教会はいったいどうなるのだろうかと不安におちいってしまいます。

身近に病気にかかった人や、災害に巻き込まれた人などがいらっしゃらない時、災害はどこか他人ごとです。痛みは自分の身に感じた時が、一番痛いのです。誰かの痛みを引き受けたり、感じたりすることはできません。その感じられないことを認めつつ、痛みを感じている方々と連帯してゆく謙虚な姿勢が大切なのでしょう。

 今日の福音で、主人がいつ帰ってくるかわからずに、今か今かと待ち構えているしもべの姿は、感染症に苦しみ続ける世界の姿かもしれません。一日も早い終息を願っても、自分だけではどうすることも出来ず、いらいらしたり、腹を立てたり、あきらめ、憤慨、心配など、様々な感情が行ったり来たりすることでしょう。それでも、しもべは主人の帰りを待つことしかできません。待っているのです。必ず帰ってくるはずですから。確信はあっても、不安にもなります。それが「待つ」ことなのでしょう。

 今年中に感染症の終息はありえないでしょう。ワクチンはいつできるのか、もし病気になったらどうしようか、ひどいことにならないといいのだが、自分だけでも、あるいは、自分の大切な人たちだけでも、どうにかならないだろうか…。このままだと仕事が、学校が、社会が、教会が成り立たない。どうすればよいのだろう。多くの人がそんなに悩んでいるのではないでしょうか。

 わたしが今できることを、着実にできることを考え、そして、少しでも可能性のある人を援助したいと思います。一人ひとりが出来ることを神様は準備してくださり、「目覚めるように」と助けてくださっているのです。



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