主日の典礼 2020年
9月6日 年間第23主日
マタイ18章15~20節
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(18章20節)
感染症の影響で、従来のような教会活動はほとんどできなくなりました。教会に集まって会議をすることも、子ども食堂をすることも、いろいろな募金活動や、人と人との触れ合いが断たれています。このような状況にあっても、多くの人がそれぞれにできることで、一生懸命活動していますし、それぞれの場所で祈りと献金、そして人々との連帯によって、今までできなかったことも出来るようになりました。
インターネットやスマートフォンを使って、遠距離にある人とも、親しく話すことが出来ます。しかも顔と顔を見合わせて。でも、近くの人と交流はできているのでしょうか。
今日のイエスのことばは、わたしたちが一つになっているとき、イエスがそこにいらっしゃることを確信させるものです。教会に集まって祈っているとき、この言葉が実現していると思っていました。けれど、そうではなかったのです。今回のように、たとえ集まれなくても、教会に行けなくても、たった一人で祈ったとしても、それがイエスとともにあるなら、わたしたちは一つなのだということです。
そうです。わたしたちが集まったところにイエスがいてくださるのなら、イエスがおられるところに、わたしたちは心を集めて、一つになれるのです。
いろいろな厳しい状況があっても、イエスのことばに信頼し、一人ひとりが物理的に離れていても、みことばと祈りによって一つであることを信じ続けたいと思います。
9月13日 年間第24主日
マタイ18章21~35節
わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。(18章33節)
ゆるしと和解はわたしたちにとってたやすいことでしょうか。それともとても難しく、受け入れがたいものなのでしょうか。
現代の若者たちは人と人との関わりがとても難しいと言います。もちろん若い人ばかりではなく、この人間社会の中では、人とかかわらなければ生活できないのに、その関わりが苦しさや軋轢を生みだすというジレンマに満ちています。若い人たちもわたしたちも、ひとたび大きく失敗し、怒られた体験を持つと、そこから臆病になり、関わりを築けなくなってしまうのでしょうか。ゆるしや和解は人と人との関わりの中で欠かせないものです。どうしても避けられないことと言えます。何か気まずいことをしたちょっとしたことから始まって、もしかしたら、取り返しのつかないことまで、あやまちはどんな人にもあること。あるいは、他の人に迷惑をかけ、恥ずかしく、そんな自分を消してしまいたい、と思うようなこともあるかもしれません。けれども、そんなわたしたちを周りの人びとは忍耐を持って受け入れてくれました。実は、それがまた悔しく、恥ずかしいことでもあるのです。そんな自分を見つめたくないから、人との関わりを避けようとしてしまうのでしょうか。
それは出発点が違っているようです。
ゆるしてもらうこと、受け入れてもらうことは、本当は何も恥ずかしいことではないのです。日本の社会は、自立や自己実現や自己責任ということばでがんじがらめにされていますから、「ごめんなさいと謝り、それをゆるされること」は、恥ずかしい体験、してはいけないもの、と刷り込まれているのではないでしょうか。でも本当は、みんな間違いを犯しますし、みんなそれぞれ恥をかきますし、恥ずかしい思いをし、失敗を繰り返しているのです。
「そんなこと」と言われるようなことが、本人にとっては言いようもなく恥ずかしくつらい黒歴史なのですが、そう思っているのは本人ばかりで、周りはもうすっかり忘れているようなことかもしれません。
とにかく、人間は、ほめられることも大切ですが、失敗して恥ずかしい目に合うことも同じように大切なのだ、ということを忘れないようにしたいものです。失敗してゆるされ、自由になったときにこそ、そのゆるされた体験こそが、かけがえのない宝であったと気づくことが出来るのです。
9月20日 年間第25主日
マタイ20章1~16節
『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』
『だれも雇ってくれないのです』
『あなたたちもぶどう園に行きなさい』(20章6~7節)
誰からも必要とされず、じっと立ち続けなければならない人は、どんなにかつらいことでしょうか。そんな人を雇う主人は、周りから見ればおかしなことをしているな、と言われるかもしれません。けれど、一生懸命働いてくれる人が一人でも欲しいと思う主人にとっては、彼らもまた大切な働き手なのです。
だからこそ、主人は気前よく賃金を払うのです。主人の願いや思いに答えて働く人は、「ふさわしい報酬」を受け取るのです。
最後に来た人も、最初から働いていた人も同じ賃金だということで、損をしたように思うのは、最初から働いていた人々でした。彼らは労働に見合う対価を自分の働きで考えるのではなく、人と比べてでしか考えられませんでした。人と比べて勝っている(劣っている)と考えることは、なんとも寂しく、つまらないことではないでしょうか。最初から働いていた人は、自分たちが「働いた」ことが単なる労働、苦しい仕事でしかなかったのかもしれません。本当は、労働することが、主人のために働くことこそが、喜びであったはずなのですが。
わたしたちも「働くこととは、対価をもらうこと」としか考えていないでしょうか。仕事とは、働きとは、労働とは、その賃金のためにだけ行うことではなく、働きによって社会に、ほかの人びとに奉仕し貢献できるという喜びを実現する場であるはずです。
わたしたちにも、主のために、イエスと共に働ける幸せを、改めて感じたいとおもいます。
9月27日 年間第26主日
マタイ21章28~32節
ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。(21章28~30節)
言われたことに反発し、それでも、思い直して出かけた兄と、言われたことには良い返事をしつつ、実行しなかった弟。二人の対象が、なんとなく笑いを誘います。
おそらく、お兄さんはまじめで、一生懸命で、でも考えるからお父さんに反発もし、まともにやりあうような人だったのではないかと思いました。反対に弟は、ちゃっかりしたタイプで、人の願いには「はいはい」と返事をするけれど、都合よく忘れたり、ほかの用事を作ったりして、のらりくらりと追及をかわすような人かもしれません。
どちらがどうというわけではなくとも、一般には、言いつけを守って父親に従った兄の方が推奨されるのでしょう。でも弟にも言い分はあるのかもしれません。
ここでイエスがたとえとして語りかけるのは、自分は律法を忠実に実行していると自負している人(祭司長や民の長老たち)に向かってです。福音のすぐ前の部分は、「イエスの権威」についての彼らの質問でした。イエスは彼らに反対に質問を返し、彼らの「思惑」主義を見抜きます。
長老や祭司長たちは、自分はしっかりやっていると考えていたでしょう。けれど、イエスの目から見れば、律法のことばは守っていても、人を大切にする神様のことをちっともわかっていないのが彼らでした。
わたしたちも、自分の意見や考え、共同体の決まりや言い習わしを大切にするばかりで、本当にその中の大切なことを実行していないかもしれないのです。「考え直す」機会はたくさんありました。けれど、多くの人の回心を見ても、宗教的なエリートたちは本当の道を歩むことをしなかったのです。機会は与えられています。イエスのことばも聞いています。神様に対して祈っているでしょう。民の長老たち、祭司長たちがそうだったのです。わたしたちも、同じ状況におちいってはいないでしょうか。