主日の典礼 2020年

8月2日 年間第18主日 
マタイ14章13~21節

イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(14章16節)

大勢の人が「食べて、満腹した」奇跡が語られます。食べることが難しい時代は、おそらくそんなに昔ではないはずです。これを読んでおられる方の中にも、戦争を体験された方、様々な事情で、食べるものに事欠く生活があった方もいらっしゃったのではないでしょうか。

 わたし自身と言えば、子供のころからきちんと食べさせてもらったので、それはとても感謝しています。でもわたしの子供時代は現代の日本のように様々な食事や食べ物があふれ、グルメ番組がテレビにあるなどとは、考えられない時代でした。コンビニエンスストアなど、当時はありませんでしたし、いろいろなチョコレートやお菓子を買ってもらえるのも、まれなことだったと思います。

そんな昔のほうがよかった、と言うことはできません。貧しい人は当時も今もおられます。物が多いとか、豊かで満ち足りていても、今回の感染症のようにあっという間に生活が変わってしまうこともあります。この感染症によるいろいろな不自由な生活を通して、また世界の状況を見たり聞いたりするにつけ、わたしたちの生活は、決して当たり前のことではないのだと考えさせられます。

イエスが弟子たちに「食べる物を与えなさい」と言われた言葉は、わたしたちに向かって言われている言葉でもあると思います。当たり前のように、日々の食事をきちんといただいているわたしたちですが、日本の社会にも、また世界中にも、食事に事欠く人々がたくさんおられるのが現実です。それは、はっきり言って、わたし自身のいたらなさ、わたしたちの怠慢であり、日本社会における悲しい現実でもあるのです。わたしたちは、イエスに代わってパンを配らなくてはならないのです。自分の生活を満たす前に、それを託されていることをもっと心したいと思います。


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8月9日 年間第19主日 
マタイ14章22~33節


弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。(14章26節)

恐れや恐怖はどこから来るのでしょうか。幽霊や妖怪などと出会いたいとは思いませんし、自分の理解を超える何かがこの世界にあると、認めることが出来るでしょうか。

日本の社会は、読み物やネットの情報、テレビや動画であらゆることが氾濫していますが、その中には多くのファンタジーや妖怪、心霊物語、呪いや魔術、はては地獄や黒魔術など、わたしたちの恐怖をあおるものもたくさんあるようです。そのような情報にさらされているわたしたち、とくに若い人々は、この世界の現実を見てどのように感じているのでしょうか。現実のほうが、何か希薄で頼りないものになっているのではないでしょうか。妄想の世界にどっぷりと入り込み、自分がどこに行くのかも確かめようとしないのかもしれません。いやいや、ちゃんと考えている人も、本当はたくさんいるはずです。けれど、この情報とバーチャルのみに頼ってしまいがちなのが、わたしたちです。自分の目で見ることも、手で触れて確かめることもせず、文字と映像だけで判断してしまうことはないでしょうか。

そんなわたしたちの今の状態は、嵐の中でイエスを欠いて、船の中で恐れうろたえている弟子たちのようです。湖の上、嵐の中、自分たちの判断力は失われ、どうしようもないわたしたちです。そんな時、イエスが現れたのに、わたしたちは「幽霊だ(これは現実ではない!!)」と言っておびえ惑うのです。それでもイエス自ら、わたしたちに「恐れることはない」と話しかけられます。

自分の中の恐ろしさが過剰になると、周りのことばも聞こえなくなるでしょう。恐れはパニックを引き起こし、そして相手への攻撃ともなりかねません。かつてあった東西の冷戦時には、地球を何度でも滅ぼすほどの核兵器が作られたと聞きます。それが今、どうなっているのかもわかりません。このような「恐怖」「恐れ」は確かにわたしたちをがんじがらめにしてしまいます。けれど、その時にこそ、イエスの呼びかけを落ち着いて聞くことが出来るなら、イエスが共にいてくださることに気が付けるのです。


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8月16日 年間第20主日  
マタイ15章21~28節


この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。(15章22節)

カナンの女性を冷たくあしらわれるイエスの考えはどこにあるのか、と思います。本来、こんなことはないはずだとは思いませんか。イエスは誰にでも慈しみを惜しみなく与えられる方のはずです。生まれた国や宗教などで差別はなさらないはずです。でもここではこの女性に対して「犬に与えてなならない」とまで言われています。それは、あまりにひどいのではないでしょうか。

これについては、様々な解釈がなされていますが、わたしは、今日、この福音を読むときに何にもへこたれない「母の心」に注目したいと思います。

母の心は偉大で、勇気があり、慈しみに満ちていると言われます。わたしの知っている多くの「お母さん」はそうだったと思います。けれど、同時に、ふつうの人間でもありました。弱さを持ち、苛立ち、嘆き悲しむ人、お母さんにもそんなところが必ずあるのです。母であることからくる苦しみや嘆きは、たくさんの人が書き記しています。同時に、母自身が大変強いこともあちこちに書かれています。

 母親は強く、また弱く、雄々しく、また女々しく、自分を捨てて子供を育てながら、自分の欲望を子供に投影することもあるのでしょう。どれもが、人間として当たり前の姿です。

 このカナンの女性は、イエスの都合や、弟子たちへの配慮も何もせず、子供と自分の苦しみでいっぱいになり、叫び、嘆き、すがりつくのです。多分、現代にこんな風になりふり構わずにいたなら、「おかしい人」として通報されているかもしれません。けれど必死になった彼女には、イエスだけが頼りなのだ、としか考えられなかったのでしょう。

必死さは、母親特有のものではありませんが、わたしは「必死である」ということは、母親の大きな特徴であると思います。そうでなければ、子供を育て、養っていくことはできないからです。他のことなら、少々手を抜いて、必死になどならなくてもできるかもしれません。でも子供は「いのち」そのものですから、「必死になって」「いのちを賭けて」「死に物狂いで」育てなければならないのでしょう。その時彼女は「雄々しく、強く、たくましく、自分勝手に、人を押しのけて」イエスに、自分の信じた方にすがりつくのでしょう。「必死になる」ことの少ない現代です。わたしのうちに彼女に必死さが与えられますように。


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8月23日 年間第21主日  
マタイ16章13~20節  


イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(16章15節)

弟子たちにご自分のことを問いただされるイエスは、彼らの答えを聞いて、「正解!!よくやった」と言われるのでしょうか。弟子たちは自分の答えた答えの意味も知らずにいるのです。イエスは、本当はがっかりなさったのではないかと思うのです。「こんなに近くにいて、わたしの話を聞いているのに、答えは正しくても意味は全く分かっていない、まったくなんということだ(ため息)」。

わたしたちも知らず知らずにこんなものなのです。イエスにため息をつかれてしまう、弱さと罪にまみれた存在です。どうしてこうなのでしょう。イエスははっきりとした神への道を示しておられるのに、ちっともうまくいきません。「イエスは誰なのか」という問いの答えを知ってはいても、少しもわかっていないのです。

イエスはそれでも、弟子たちを見捨てることはありません。実に、十字架の時に弟子たちが逃げ出しても、それをとがめることもなさいません。わたしたちは、いろいろなカテケージスの内容を知っていはいても、少しも大切な愛を実践できていませんし、何度もミサにあずかっていながら、人をないがしろにするのです。

イエスの偉大さは、どうにもならないくらい弱いわたしたちを見捨てないというところなのです。本当にそう思います。自分すら自分をあきらめてしまいたくなる時も、イエスはあきらめることなく、わたしの相手をしてくださっています。どうかそれを忘れませんように。そして、「うまく答えた」と悦に入っている時も、イエスのへりくだりを忘れることがありませんように。



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8月30日 年間第22主日   
マタイ16章21~27節  


「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(16章24~25節)

自分のいのちを救う、ということの本当の意味をイエスは教えておられます。新型コロナウィルスの感染が世界に広がった現在、この世界は確かに感染症以前とは違っていると感じられます。人と人との距離を取ろう、握手やハグはしない、教会に集まれない、様々な活動ができないなど、多くの制約が課せられています。人を助けるために行っていた活動が、人を助けるためにできないという皮肉な状況に、多くの人が焦りや不安、イライラを抱え、どうしたらいいんだろう、と考えておられると思います。感染症の辛いところは、病んでいる人、死に臨んでいる人のそばに行くことが出来ないということです。助けを必要としている人のそばに行けば、それが病気を蔓延させることにもなりかねない、ということです。

人と人との物理的な距離を取ることがあっても、心と心はつながっていたいと思います。けれどわたしたちは修道院の中でしか過ごしていないので、その痛みも感じずに、ぼんやりと生きているのかもしれません。いのちに触れるという大切な人間としての日常を、病気がうつるから、危ないから、という理由で遠ざけてしまっているわたしたちです。そして多くは「人が見ているから」「何か言われたら怖いから」ということを口実にして、関わりを避けているのかもしれません。イエスについてゆくためには、いったい今、何をすればよいのでしょうか。すべてのことはできません。けれど、何かできることがあり、イエスについて行きたいという思いだけは、絶えず新たにしてゆきたいのです。



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