主日の典礼

11月3日 年間第31主日 
ルカ19:1-10 

 「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」10節

有名な徴税人ザアカイの話が語られます。イエスはエルサレムに向かって歩んでおられます。ザアカイはエリコの住人で、この町に着いたということは、もうすぐエルサレムだということです。「良いサマリア人」のたとえにも「エルサレムからエリコに向かう道」と書かれているように(10章30節参照)、エリコの町は大昔から要所にあった大きな町でした。

そこで「徴税人の頭」をしていたザアカイはお金持ちでしたが、「背が低い」と言われているので、つまり、貧相で、見た目はあまりよくない人だったのでしょうか。とはいえ、お金持ちですから、特にイエスに縋りつくような必要はなかったでしょう。単にイエスの評判が高かったので彼もこの人を見てみたいと興味を抱いたのでしょう。

単純に興味を持ったのか、それとも何か他に理由があったのでしょうか。とにかく、木に昇ってまでイエスを見てみたいという気持ちだったのでしょう。必死の思いがあったと考えられます。この「必死さ」がザアカイの人生を導いたのだと思います。

現代社会において、人はどんな時に必死になるのでしょうか。入学や入社の試験の時、自分の人生をかけたとき(プロポーズ?)などが考えられますが、もっと大切だと私が思うのは、日常の様々な出会いの時です。

「一期一会」と言われるように、出会いはその時その時のかけがえのない瞬間です。とはいえ、毎日のこと、いろいろな用事に紛れて、なかなか真剣に考えることが出来ないこともあります。けれど真剣に、たいせつに、誠実に、真摯に出会いを持つとき、そこに私たちは豊かな恵みを感じることが出来るのだと思います。

ザアカイがイエスを見たいと思ったことから、木に登り、そしてイエスとの親しい会話をすることが出来たこと、その出会いが、ザアカイを変え、「救い」をもたらすものとなったこと。

わたしたちも日常の小さな出会いを通して、この世界を社会をそして自分自身を変えるような体験をするのではないでしょうか。


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11月10日 年間第32主日
ルカ20:27-38


イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。(34―36節)

イエスは、律法学者やファリサイ派、あるいはサドカイ派の人々に質問されています。これらの質問は、とても意地悪なものです。悪意を持ってイエスを罠にかけようとする質問なのです。イエスの評判がいいので、どうにかしてやりたいと思ったり、イエスが自分たちを大切に敬ってくれないので目障りなのです。エルサレムの自分たちのテリトリーに入ってくるなんて、なんて大胆で、高位聖職者をないがしろにする行為なのでしょうか。田舎で地味に活動していたら、こんな軋轢もなかったでしょう。けれど危険だとわかっていてもイエスはエルサレムにやってきて、挑発的な行為と言動を繰り返されます。

人間的にみれば、それは何ともばからしいことかもしれません。けれどイエスは御父のみ旨を果たすために、あえてこういった行為をなさいます。

人間は安心立命に必死になるものですが、イエスはそれに反する行為を大胆になさっています。イエスを見て、わたしはこんなことはできない、と思うのではないでしょうか。それはそうでしょう。イエスは御父のみを見つめて、行動されているのですが、わたしたちは、自分のことを考えてしか行動できません。臆病で、自分のことしか考えない、保身にたけた人間です。

多くの場合、わたしたちはつらい目、いやな目にたくさん会うと、もう駄目だ、こんなこと、人を愛すること、人と関わることなどやめよう、もう十分やったから、自分のことを心配しよう、となるのではないでしょうか。イエスはその先にある世界を見つめ、自分のいのちを捨てるという、人間には到底考えられない行動へと突き進まれます。わたしはどうなのでしょうか。弱いです、ごめんなさいと言うこともあるのですが、それでは済まない時もきっとあるでしょう。

その重要な時を見つめて、今はできないかもしれません。でも、それを実現したい、イエスのように歩みたいと望むこと、歩むことこそが、人間の大切な行動なのだと思います。それは、いくら失敗しても、また立ち上がり、御父に、イエスに導かれたいと思う一人一人の心の在り方なのです。 


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11月17日 年間第33主日 
ルカ21:5―19


イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。」(8節)あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。(16節)

いよいよ「終末」「世の終わり」のことが語られるときになってきました。  パソコンでは「しゅうまつ」と入力すると「週末」が出てきます。日常の会話でも「しゅうまつ」と言うと、土曜日日曜日の予定のことかと考えるでしょう。それほど日本社会の中では、「世の終わり」のことなど、遠い出来事なのです。

教会では、11月にあると必ず「最後の審判」の福音の箇所が読まれます。何か、漠然として、自分には関係のないことだと考えてはいませんか。日本の社会にいるとき、その時その瞬間を大切にして、将来のことは「何とかなるさ」で終わっているような気がします。そして「大切にする」と言っても、実のところ、自分に良いことだけを求める、と言ったことが多いのではないでしょうか。

本当に今たいせつにすることは何なのか、いざとなったら、どうにかなる、では済まされないでしょう。マタイの福音にあるように、「あなたたちはこれをしたから」と言われることが出来るでしょうか。それとも「やらなかったこと」がわたしたちを告発するのではないでしょうか。意識して良いことをしようというのではなく、神様を大切にすること、それこそが、本当に周りの人と自分を、そして世界を大切にしていることだと気が付いているでしょうか。ついつい自分のことを優先してしまっているのです。そして、足りなかったことに気が付いて、悔やむのですが、それもあっという間に忘れてしまうのではないでしょうか。

御父のいつくしみは限りない、と信じていても、わたしたちは、自分を赦すことが出来ず、御父から遠ざかってしまうのかもしれません。本当に自分を受け入れてくださる御父の愛を、どうやって確かめられるのでしょうか。とても難しいことですが、人生をかけて、信じ切ることだけが、その確かさに生きることになるのではないでしょうか。


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11月24日 王であるキリスト 
ルカ23:35-43  


兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。(36―38節)

毎年めぐってくる「王であるキリスト」の祭日は、実のところ少し困惑するものです。今日の福音では、イエスは十字架にかかり、みじめな姿、死に行く姿をさらしておられるのです。こんなイエスを見て、だれが王様だと思うでしょうか。

 天と地の間に立つ十字架こそ、「王」という漢字があらわすものだと、昔ある司祭がお説教の中で語っておられました。漢字の「王」と言う字は、図形から見るとそんなように見えるのです。

つまり、わたしたちは天と地をつないでおられる十字架のイエスだけが、本当の「王様」であると知るべきなのです。

けれど、なんとみじめな王様なのでしょう。権力者がその地位を追われて、叙景されるよりも、もっとみじめな刑死です。十字架刑は本来奴隷身分の者にしか課されなかったもの、とても残酷で、みじめで、辱めに満ちた刑罰なのです。

イエスはそのさなかに、ゆるしを与え、楽園を約束なさいます。誰よりもみじめで、苦しい時に、人間としての尊厳を失わせようとするあらゆる悪に立ち向かって受け止めるイエス。それこそが本当の「王」であることなのです。わたしたちにはこのような重要な時を、全身全霊で受け止め、死んでゆくということが出来るのでしょうか。

本当に重大な時を受け止め、生き、死んでゆくことこそが、わたしたちの人生をわたしたちが神と共に生きてゆくことなのだと思います。

人間は意識するとしないとにかかわらず、神である方の存在を生き、奉献して生き続け、そして命を返す時まで、生きてゆくのですから。いのちは自分のものでもなく、ましてや、人が同行して良いものではないと、心に深く止めておきたいものです。その命の主こそ、イエスであることを知るとき、人生の「王」である方と一緒に、人生を歩むことが出来るのではないでしょうか。


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