主日の典礼

10月6日 年間第27主日 
ルカ17:5―10 

 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。(6節)

「わたしは、信仰を十分に持っています」と言い切る人がいるでしょうか。  どんなに信じようとしても、疑ったり、悩んだり、また、今日の福音の前にある弟子たちのように人を許し続けることができないと感じたり、すべて「信仰が少ないからだ」と感じることも多いのではないでしょうか。

とはいえ、「信仰が無いとは言えない、少しは持っていると思う」と、大体の人は感じているかもしれません。とはいえ、信仰というのは、量で測れるものなのでしょうか。

イエスの言われる「からし種一粒」の信仰を持つことができない時があります。人と人との間のぎくしゃく感、一生懸命やっても答えてくれないわたしの周りの人々、勘違いや思い違いですれ違う心。そんなことが積み重なって、心も体も疲れ果てたとき、わたしたちは、一粒のからし種ほどの信仰を考えて、イエスにゆだねることができるでしょうか。それとも、人間的な慰めや楽しみに逃げてはいないでしょうか。

もちろんわたしたちだけではありません。多くの人がこの社会の中で疲れ切っています。「一粒の信仰」によって、その渇きをいやすことができるはずなのに、多くの人がみことばにも、イエスのまなざしとやさしい愛に触れられずにいます。わたしたちが怠惰だからでしょうか。でも一生懸命、毎日生きているのに、なぜ、こんなにむなしく時間が過ぎてゆくのでしょうか。

多くの人が自分なりに一生懸命生きているのですが、「自分なりに」だけでは十分ではないことをイエスは教えられているのです。それは、人間が「自分なりに」得られることではなく、与えられるもの、謙虚にいただくものだと思います。

自分ではどうにもならない時、「自分の信仰」だけにしがみついていては、出来そうにないことに取り組むことも、出来なくて落ち込んだ後、立ち上がることも出来ません。イエスの言われる「一粒の信仰」は、「なんでも完全に出来る」自分本位の信仰のことではありません。かえって、「出来ないこと」を受け入れる謙虚なものなのです。わたしの中に、そのような本当の信仰が欲しいと思いますし、そのように生きたいと望みます。望み続けることこそが、信仰と希望と愛の豊かな実りを受けることなのではないでしょうか。


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10月13日 年間第28主日
ルカ17:11―19


その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 (15節)

感謝することは、自分の中にいただいたものをはっきりと自覚できていなければなりません。とはいえ、何をいただき、何をもらっていないかを考えると、ついつい、もらっていないこと、足りないこと、不十分なことばかりを感じてしまします。

「不」の付く言葉を考えてみませんか。不平、不満、不足、不利、不安、不備……。もっとあるかもしれません。このようなことばを知らず知らずのうちに呟き続けているのではないでしょうか。こんな時、感謝は出てきません。

社会に「べきお化け」が蔓延してるといいます。「○○すべき」「××であるべき」、と知らず知らずに人を枠に押し込め、「普通」という「自分の感覚」で閉じ込め、規定してしまします。それが「べきお化け」というそうです。(2109年7月29日付 NHK NEWS WEB 参照)。そんなお化けに惑わされ、苦しめられ、怖くなって、引きこもっている方がいるそうです。わたしはそれに加えて「比較妖怪」もいるのではないかと思います。「あの人と私を比べて」「あの人とこの人を比べて」どっちが劣って、どっちが上かを考え、一喜一憂したりして。そして、比較することによって、さらに傲慢になり、あるいはコンプレックスが大きくなり、ますますその妖怪に支配され、あらゆることを妖怪の影響下で判断し続けるのです。

こんなお化けや妖怪がいると、自分がいただいているものを認め、感謝することもできませんし、周りの人にも不平不満だけが募るような気がします。そして人を型にはめ、「ここがおかしい」とか、「こうでなくては」とか考えて、イライラするのです。本当は、周りの人がわたしにイライラしているのに……。

「癒されたこと」を知った人が、大声で感謝をささげたということは、自分に起こったことが尋常ではないこと、神の恵みであることに気が付いたことなのです。それは、治ったら「祭祀に体を見せるべき」「清めの祈りをささげるべき」といった表面のことを中心に置くのではなく、本当に、神さまの恵みを感じた生き方になっていった、ということなのでしょう。  


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10月20日 年間第29主日 
ルカ18:1-8


神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつま でもほうっておかれることがあろうか。(7節)

願い求めること、祈り求めること、嘆願すること。これらのことに「飽いて」はいませんか。

どうせ祈っても状況は変わらなし、お願いしても少しも良くならないし……。

こんな風に思って、祈りはするけれど、どこななおざりになっていることがあります。単なるルーティンワークのように、ことばだけ繰り返してしまいます。心をこめていても、待つのに疲れたり、結果が分かって何も自分の思った通りにならない、ということでしょうか。

かなわない祈りも、確かにあります。それはその願いをかなえることが出来ないという神様の神秘だと思います。むろん、神様は全能ですから、祈りをかなえることだってできたはずです。災害を起こさないことも、人が病気で死ぬことも、事故が起こらないことも、小さな子供たちが虐待というむごい出来事に合わないようにすることも、いじめやハラスメントや、そのほか、多くの苦しいことが起こらないように、人間に降りかからないようにすることが出来るはずです。

でも神様は、そんな安直な幸せ、バーゲンセールで売っているような幸せを人間に与えることはせず、人間の営み、自由、考えにこの世界をゆだねておられます。それは、一つ一つオーダーメイドの一人一人に似合うような、寄り添うような、かけがえのない「幸せ」だと思います。

だから、願い求めること、それを続けることは、神様に信頼し続ける人の行動です。

わたしたちが願いに倦むとき、それは、神様への絶対的な信頼を失っている時でしょう。「適当な」信仰、「適当な」信頼、ゆだね、祈り。わたしたちの祈りには、そんな落とし穴さえあるのです。かなえられないかもしれない、でも祈り続けること、ルカ福音にあるたとえ話は、わたしたちがどれくらい神様に信頼しているのかを、神様の側からではなく、わたしたちの側から計ることもあるのだと思い知らされます。


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10月27日 年間第30主日 
ルカ18:9-14  


徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(13節)

わたしは、イエスに向かって文句を言いたくなる時があります。それは、イエスが「罪以外は」人と同じになられた、ということです。わかっているのです。イエスは罪を犯さなかったということは。イエスと罪は、まったく相容れません。イエスはただ神である父の方をまっすぐ向いて、すべて行動しておられたからです。

 でも、人間であるわたしたちは、弱さを引きずり、罪を犯します。それも何度も。繰り返して。そうです、もうしないでおこうと思ったとしても、また同じことを繰り返す、そんな人間の現実をイエスは体験されていません。(ここでいう罪とは、いわゆる「大罪」であり、ちょっとしたあやまちとは全く異なります。)人間は、後悔し、もうしないと決心し、その機会から遠ざかったとしても、なんとなく、どこからともなく、罪の機会は近寄り、わたしたちは「ああ、これくらいなら」「まだ時間があるし」などと言いつつ、繰り返し罪を犯してしまいます。

その時、その時の痛悔や反省が偽物なのではありません。本当に、神様に立ち返って、二度と同じことを繰り返さないと誓ったとしても、同じことを繰り返したり、また別の罪を犯したり、人間の弱さはとどめようもありません。イエスはこの「繰り返して罪を犯す弱さ」を体験しなかった「はず」です。

どうでしょう、神学的には問題があるかもしれませんが、イエスは繰り返して罪を犯す人の痛みをきちんと知っておられた「はず」です。でも「弱さ」を体験していないイエスは、「痛みを」どのように共有しておられたのでしょう。そうです、イエスは罪は侵さなかったかもしれませんが、人間特有の弱さは持っておられたでしょう。疲れたり、不機嫌になったかもしれません。気の合う人もいれば、なんとなく虫の好かない人もいたかもしれません。イライラしたり、落ち込んだり、あるいは、ため息をついて、立ち上がりたくないと考えたこともあるでしょう。そのような弱さに打ち勝ったイエスは、自分の力に頼るのではなく、本当に、御父に向き合うこと、御父の助けの身に信頼することを選んでおられたのです。

胸を打って、罪のゆるしを願う徴税人は、この自分の弱さをだれよりも知っていたのでしょう。だからこそ、目を上げることもできず、おおっぴらに祈りの言葉を唱えることもできない、自分の弱さと人から見下げられている苦しさに、ひたすらゆるしを願うだけなのです。イエスは彼こそ、「受け入れられた祈りをした」と称えます。それは、彼が真剣に御父と向き合っていたからです。

わたしたちも、どんな苦しい時も、弱さに負けてしまう時も、イエスのことばに信頼して、御父と向き合って、ゆるしを願い続けることが出来ますように。


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