主日の典礼 2020年

10月4日 年間第27主日 
マタイ21章33~43節

『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』(二十一章四十二節)

この引用は、詩篇一一八(一一九)です。「今日こそ神がつくられた日」という答唱句で、復活祭の朝歌われる詩編を、皆様もご記憶のことと思います。わたしたちにとってイエスの復活は、当たり前のこと過ぎて、今更、説明しなくては、とは考えられないかもしれません。けれど、イエスの福音を聞いたことのない人々にとっては、「復活」と言ってもよみがえり、命が取り戻せたことなどと一緒になり、神のいのちに生きるのだということを説明しないとわからないこともあると思います。

 今日の福音で、イエスがぶどう園を借りた悪い農夫たちのたとえで、伝えたかったこととは、いったい何なのでしょうか。

 悪いことをしたから、彼らが報いを受けるのは当然だ、というような単純な話ではなさそうです。この話が語りかけることは、わたしたちにとってかけ離れたことなのでしょうか。

 ぶどう園で働いている人々は、実のところ、ちっとも悪いことをしたなどとは思っていないようです。自分たちが働いて得た実りをどうして自分たちのものにしてはいけないのか、そういう思いがあるのではないでしょうか。それは出発点を忘れてしまっている人々の思いです。あらゆるものが、神様から与えられたものであることを、わたしたちは忘れてしまいがちです。時間、空間、いのち、信仰、周りの人々、自然など、神様がわたしたちに用意してくださらなかったものはないはずです。このたとえのぶどう園の主人のように、至れり尽くせりの心遣いを、わたしたちのことを考えて、神様は用意し、準備してくださっているのです。でも、忘れてしまいます。普通にあるものが、普通ではないと気が付かなけらばならないのです。特に、このコロナ禍において、多くのことが「普通」ではなかったのだと気が付かされました。その時、神様のいつくしみと恵に感謝できるのか、それとも、自分のものを奪われまいと必死になって攻撃するのか。感染症の中、わたしたちもその問いかけを受けましたし、今も続いているのだと思います。大きな災厄の後、ちっとも変化がないとしたら、いったい何でしょうか、わたしたちは学ばなかったのでしょうか。単に、自分の安寧だけを見つけて、本能的に過ごしているだけの人間なのでしょうか。それとも、学ぶべきことを得て、少なくとも、小さな進歩を得ることが出来たのでしょうか。


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10月11日 年間第28主日 
マタイ22章1~14節


そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。(二十二章四~六節)

 婚礼という特別な席に呼ばれた人々が、それにこたえることもせず、かえってひどい無礼を働いたことが述べられます。無視したり、商売に出かけたりして、重要な呼びかけに答えることもしないのは、なぜでしょうか。

重要な呼びかけであることを解っていなかったのでしょうか。解っていても、それにこたえるのは、自分の計画を変えなければならないことだったので、ちょっと勘弁してください、というような気持だったのでしょうか。わたしたちもそんな場合があることをしばしば経験します。

自分の都合で人を動かしたい時があります。自分の計画を優先させるため、それを邪魔することには応じられないこともしばしばです。また、人の願いがたいしたことではないと考え、無視したり、聞かなかったふりをします。どんなときにもチャンスは一回だけなのですが、それをわかっていないので、無視し、聞こえず、見ないふりをして、わたしたちは神様との関わりをないがしろにしているのです。

そうです。周りの人からくる言葉、願い、ことばはすべて「神様」がなさっていることなのですが、わたしたちはこの人々のように、商売に行ったり、畑に行ったりして、聞かないふりをします。そして、いざとなれは、「そんなこととは知らなかった、分かるように言ってくれればよかったのに」と相手のせいにしてしまいます。さあ、わたしたちは、神様からの呼びかけにふさわしく応えることが出来るでしょうか。


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10月18日 年間第29主日  
マタイ22章15~21節


イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(二十二章二十一節)

 イエスの言われたことに対して、質問した人々はどんな顔をしたことでしょうか。きまりが悪くなり、そそくさと立ち去ったかもしれません。自分たちの意地悪さを棚に上げ、イエスの言動にむかっ腹を立てたでしょう。イエスはそんなことも十分理解しておられたと思います。

イエスは、人々の思惑など忖度なさいません。それは、自分のことばと行いが、御父のみ旨にかなったものであることをしっかりと自覚しておられたからでしょう。わたしたちもそのようにできるでしょうか。

そうできればいいとは解っていても、そう行動できない時があります。いろいろな状況を考えたり、自分の利益や損失を考えたり、習慣だからとか、今までにないことだからとか、人の目や耳を考えてしまいがちです。わたしたちの一つひとつのことばと行いが、実は神様のみことばを現すものなのですが、その「福音」を人々に読めるようにわたしたちは提示できているでしょうか。

  「神様のものを神様に返す」ことは言うは簡単ですが、実に難しいことです。自分が獲得したものは、自分の力で得たものと考えてしまうからです。本当は、それがどこから来たのか、よく考えてみればわかることなのですが、自力で得たものとして、独り占めしてはいないでしょうか。

 物だけではありません。時間について言えば、わたしの時間としてわたしがその時間を独り占めしていることはないでしょうか。もしかしたらその時間を人のために使うことが出来たにもかかわらず。あるいは、人間関係においても同じことがいえると思います。「この人との関係は、わたしのだけのもの」と考えることはないでしょうか。

様々なもの、いいえ、すべてのものが神様のものであるなら、そのすべてから手を放して、神様に返すことが出来るように、心がけていかなければならないのだと思います。とても難しいことですが。


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10月25日 年間第30主日  
マタイ22章34~40節  


そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(三十五~三十六節)

たくさんの掟の中でどれが一番大事か、などと「律法の専門家」が知らないでどうするのだ、と思わず突っ込んでしまいたくなりませんか。そういったことをイエスに質問して、困らせてやろうと考えていることが見え透いた質問でしょう。何か答えたら、それについていちゃもんをつけてやるのだ、という気持ちでイエスに質問したとしても、イエスの答えに何も言うことが出来なくて、すごすごと引き下がってしまうことになります。ルカによる福音では、自分を正当化しようとして「わたしの隣人とは誰ですか」という問いをする人もいました。今日のマタイによる福音では、質問した人の反応は書かれていませんが、おそらく黙って引き下がることになったのでしょう。

とはいえ、イエスは相手を論破しても少しもうれしくないのだと思います。勝ったことに意味を見出すなら、それはファリサイ派の人びとがイエスを言い負かそうとして質問することと同じです。イエスは、どんな意地の悪い質問にも真剣に答えて、御父の愛を示そうとなさるのです。イエスのことばで彼らが御父の愛に気づき、回心することをこそ、望んでおられるはずです。

けれど質問する人たち、イエスを敵視している人々にはそんな心が通じません。彼らはイエスに対する憎しみや嫉妬で固まってしまい、イエスは自分たちの利権を脅かす危険な人物であることしか考えられないのです。

わたしたちも自分のことでいっぱいになっているとき、人のことを敵視し、周りが自分を迫害していると考えてしまいます。わたしの正しい意見は受け入れられないのは、相手が悪いのだ、と考えます。反対に、多くの人から迫害されている人も確かに存在します。人間同士がぶつかり合うのは仕方ないことかもしれませんが、どうしたら争いや関わり合いによる苦しみを避けることが出来るのでしょうか。

 実際、理不尽な言動をする人もいます。常識では考えられないような悪意をぶつける人もいます。彼らの心には、何を言っても届かないかもしれません。わたしもまた同じようにするときもあります。本当のところ、人から与えられる痛みは、自分が人に与える痛みでもあり、「お互いさま」であると考えた方がよいとおもいます。とはいえ、人から傷つけられても黙って耐えることだけでは解決になりません。多くの人が人間関係に苦しんでいる現代社会で、イエスのことば、態度、行動だけがこの痛みを切り開いて、解決へと導くものではないかと思います。つまり、イエスの十字架を共にする覚悟が、キリスト者に常に求められていることを忘れないようにしたいものです。



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