主日の典礼

2月3日 年間第4主日  
ルカ4章21-30

これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。(28-30節)

自分に都合の悪いことは聞きたくないし、認めたくありません。いろいろな人、人格者と言われている人でも、ここを突かれると「怒り心頭に達す」というところがあると思うのですが、いかがでしょうか。わたしたちは自分が平和な時は、ちょっとした人物のように感じていますが、いろいろな感情に振り回されて、それこそ、醜い自分をさらけ出してしまいます。そんな時、後で、どんなに悔やんでも、そのときの「醜さ」はもう、消すことはできないのです。ほんとに、困りますし、悔やみます。皆様はいかがですか。

ナザレの村人も、つい痛いところを突かれて、かんかんになってしまいます。そして群集心理で「やってしまえ」ということになったのかもしれません。

「あのイエスが」「マリアの息子が」「大工のイエスが」いろいろな思惑や感情、しかも利害関係が絡まって、いっそう複雑になったかもしれません。そんな人びとを、イエスはどんなまなざしでご覧になっていたことでしょうか。

 わたしたちもイエスのまなざしから逃れたいと思うときがあります。醜い自分をさらけ出したとき、弱くて弱くてどうしようもないとき、苦しみや怒りの原因が自分にあり、人のせいにできないとわかっているとき。そんな時、イエスのまなざしが辛くて、痛くて、どうしようもありません。

 イエスは、そして神さまは、わたしたちを赦してくださるのですが、わたしたちがそのいつくしみを信頼しきれないでいるのです。こんな自分が赦せない、こんな自分は受け入れられない。そのように思うとき、わたしたちもイエスを「崖から突き落とす」群衆に加わり、イエスを見ないようにしたいと思っています。

そんなわたしを、イエスはやっぱり見つめていてくださるのですが・・・。


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2月10日 年間第5主日  
ルカ5章1-11節


「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(4-5節)

わたしたちは、失敗や困難に出会って、打ちひしがれてしまいます。いろいろな重荷があり、自分が悪かったり、だれも悪くなかったり、みんなが悪かったりして問題が解決しません。自分のことだけでなく、町や国、世界中の問題が山積みです。「困ったなあ」と考えても、何もできない自分がいます。お祈りもしていますし、正義と平和の問題にも関心があり、知ろうとしていますが、なかなか、うまくいきません。その原因が「閉じた自分」「他者との出会いを好まない」「世の中とのかかわりを持とうとしない」「宣教への情熱を持とうとしない」自分であることに気がつかされます。そして、打ちひしがれてしまうのです。今日の福音のペトロのように。

 自分に閉じこもって、漁もうまくいかなかったペトロに、イエスは大漁をもたらしました。わたしがペトロなら、ちょっと極まり悪いことになってしまったと思います。「どうせ捕れないけど、やってみてようか、仕方がないなあ」と思っていたのに、予想に反する大漁。「これはどういうことだ、先生はわたしの疑り深さを知っていたのか」などと考えてしまいます。

イエスはどうしてここで漁をしたのでしょう。単にペトロに魚をたくさん取らせて、楽させてやろうとか、儲けさせてやろう、とか考えたのではないでしょう。

イエスは、自分の力に頼らないこと、神様に信頼することが最も重要だと示したのですが、それに加えてもうひとつ、恵みの実現には、神さまの働きかけに人間は信仰によって答える必要がある、ということです。ペトロが網を下ろさなければ、決して魚は取れなかったのです。イエスは、超能力で、魚を船の上にどっさりと降らせることはなさらなかったのです。「網を下ろす」、それは、人間の思惑を超えて働かれる神のみ技に、人が信仰を持って従う姿なのではないでしょうか。ペトロの行動は、人間のあるべき姿のようです。いくらかは疑ったり、不安だったりしても、行動に移したペトロの信仰。彼に倣うことができますように。


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2月17日 年間第6主日  
ルカ6章17、20-26節


「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。(20節)

毎年2月くらいに四旬節が始まりますが、今年は3月6日が「灰の水曜日」です。4月の最後のほうに復活祭がある、というのは、ずいぶん遅いような気がします。春も遅いのかもしれません。

今週の福音は、「幸い」をイエスが教えられる箇所ですが、マタイによる福音書の「山上の説教」にある「真福八端」とは少し違います。四つの幸いの後、四つの不幸が続くのです。貧しい人、今飢えている人々、今泣いている人々、人の子のために人々に憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられる人々が「幸い」のカテゴリーに入り、富んでいたり、満腹すること、笑っていること、そして、すべての人にほめられることが不幸なのです。

イエスの述べられる価値観は、現代の日本の社会とは全く相容れないもののようです。わたしたちは福音を読み、聖書を勉強したり、教会に通ってはいますが、このイエスの価値観を自分の物としているでしょうか。現代社会で求められていることと言えば、収入の多さ、社会的な評価、自己充足、誉めそやされ、羨まれることがすばらしく求められているように感じます。わたしたちも、その価値観、評価にどっぷりと使っているので、ともすれば、平気で、イエスの価値観と全く反対のことを評価してしまいます。

貧しい人とは、単に貧乏、経済的に恵まれていない人のことではありません。才能もなく、勉強も出来ず、人に誇ることも何もなく、世間から見捨てられ、落ちこぼれと呼ばれている人びとです。わたしも、このように書いていることによって、彼らとは違う立場にいるのだと、上から目線で言っているように思います。

人から評価されず、お荷物扱いにされ、憐れまれ、蔑まれている側に立って始めて、イエスの価値観の途方もないすごさに気がつくのかもしれません。本当は、わたしがその「憐れまれ、蔑まれている人間」であることに気が付かなければならないのですが。


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