主日の典礼

1月1日 神の母聖マリア  
ルカ2章16~21節

新しい年が始まりました。2019年の新しい一年、わたしたちに与えられた神様の恵みに感謝してゆくことができますように。皆様のために、修道院のシスター一同とともに、お祈りをお捧げしています。

「神の母聖マリア」の祝日には、毎年同じ箇所が読まれますが、毎年新たな気持ちで聴くことのできる箇所です。聖書のあらゆる箇所は、わたしたちにその日その日の示唆、勧め、慰めを与えてくれるのです。

今日、わたしたちはイエスの降誕にまつわるのシーンをもう一度味わいます。「幼子はイエスと名付けられた」(二十一節)とあるように、イエスの名がここで改めて記されました。 「イエス」とは、「神は救う」と言う意味です。

名前とは、その人の本質を表すもので、昔からとても大切にされていました。ファンタジーの古典である「ゲド戦記」ではその世界に住む人々の名前がその人の本質を現し、他人に本名を明らかにすることはありませんでした。

 教皇様もおっしゃっていることですが、守りに入って汲々としている教会、扉を閉じて純粋であろうとする教会は、自分自身の中にとどまって、病気になってしまうような気がします。それより、事故や怪我を負う事あるとしても、扉を開き外に出てゆく教会、人々のもとに駆けつける教会でなければならないのではないでしょうか。

 このように考えると、わたしたちも名前を大切にしたいと考えます。両親がつけてくれた名前、友人の名前、親しい人々の名前。けれど、多くの人が、自分の名前すら呼ばれずにすごしているのではないでしょうか。難民、移住者、男、女、外国人など、ひとくくりにされてしまうとき、人は人としての尊厳をどこかに押しやられてしまうようです。わたしたちも神からそれぞれの名で呼ばれるものです。その名をたいせつにすること、そして、神からいただくすべてのことに、心から従う恵みを願いたいと思います。

すべての人びとが、尊敬をこめて名前を呼ばれるような社会、今年も平和と和解、豊かさの内に、全世界がともに発展して行くことができますように。そして、人ときちんと向き合うことができるように努めたいものです。

そのためにも、イエスの名が、イエスの本当の使命、そして神の子であることを表していることを、今一度確認し、信じたいと思います。十字を切るとき、典礼文でイエスの名が読まれるとき、祈りの仲で、イエスの名を唱えるとき、一つ一つに心を留めることは難しいかもしれませんが、はっとした時にその名の力を感じつつ、心でかみ締めることができるのではないでしょうか。

そうです、わたしたちはさまざまな願いをいだきます。自分の弱さを耐えられないと感じるとき、あるいは、自分のことばかり考え、自分さえよければ、と思うとき、神がそんな思いを取り去ってくださるように願います。何よりも、わたしたちのいのちが、神から来たものであることを知って、人々に告げ知らせることができるよう、イエスの名を心のうちで唱えたいと思います。


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1月6日 主の公現  
マタイ2章1~12節


「主の公現」は正教会ではクリスマスとして盛大なお祝いが行われるそうです。エピファニーと呼ばれ、イエスが全人類に示されたことを記念し、祝います。つまり、イエスはイスラエルの民の「メシア」であるだけでなく、全人類のための「救い主」なのであるということです。
  この日、三人の王様がイエスを訪ねてやってきたとされますが、実のところ「王様」であったかどうかは疑問です。「黄金、乳香、没薬」と言う貴重な宝物を捧げたから、きっとお金持ちだったのかも、また、遠いところを旅してきたのだから、偉い人だったかも、と言うように想像が広がったのかもしれません。教会にある馬小屋の中の三人も、王様のような格好をしていることが多いのですが、実は、単なる「遍歴の星占い師」だったかもしれません。

彼らがすばらしいのは、遠い国に生まれた「本当の王」を礼拝しに来るところだと思います。現代社会なら、イギリス王室で生まれた赤ちゃんを多くの人が祝福して見に行くことも考えられますが、当時、交通手段も無い時に、旅をすることは本当にたいへんだったはずです。それなのに、何もかも捨てて、また長い時間をかけて、イエスのもとにやってきたことは、彼らの情熱が大きなものだったことを示しているのでしょう。もしかしたら、彼らはお話の中の人物であったかもしれませんが、一生懸命にイエスを探し、拝みに行く人がいたことこそが、大切なことで、名も無い多くの人がそんな彼らに倣って、イエスを礼拝することに一生懸命になったのだと思います。

 社会での地位や、お金持ちかどうかなどとは全くかけ離れたところで、イエスは幼子として、あるいは、十字架の上で、手を広げてわたしたちを待っておられるのです。
わたしたちもまた、彼を心から礼拝すること、そして、礼拝することによって、人々を受け入れて行くことができますように。


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1月13日 主の洗礼  
ルカ3章15~16、21~22節


イエスが洗礼を受けられた、という事実は、初代教会の人々にとってはちょっとしたスキャンダルだったかもしれません。イエスが「罪の赦しの洗礼」「悔い改めの洗礼」を受けるとは、いったいどういうことだろう、と考えた人もいたことでしょう。
  マタイの福音書ではそのことに配慮したこと(洗礼者ヨハネの戸惑い)が描かれています。ルカにおいては、そのことよりもむしろ、洗礼を受けたあともことが重要視されているようです。

イエスは洗礼を受けたあと、祈っておられました。おそらく、受ける前にも祈っておられたと思います。神の子でありながら、人間と同じものになったことを受け止める真剣な姿勢がそこにあるのです。

何においてもイエスは真摯で、本当に身を入れて、心から行動されています。洗礼を受けることに対しても、自分が人間であること、弱い、限界のある自分自身であることを受け入れるという覚悟があったのだと思います。
 その覚悟とは、彼を突き動かす御父への愛であり、御父からの愛だったのです。

御父からの慈しみと愛、あなたが大切な存在であると言うメッセージを、本当に心から受け取ったイエスは、それを人々に伝えると言う使命に向けて出発します。
 イエスの洗礼とは、その出発点だったのではないでしょうか。


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1月20日 年間第2主日   
ヨハネ2章1~11節  


「カナの婚礼」のエピソードが読まれます。
 水がぶどう酒になった、という奇跡の物語ですが、単にイエスの偉大さを現す「奇跡物語」とはちょっと違うように思います。「水がぶどう酒になった、よかった、よかった」なのでしょうか。物質的な豊かさが、神様の恵みを現しているようにも思えますが、この話は、さまざまな面から深めてゆくことができると思います。

第一に、マリア様(イエスの母、と呼ばれて登場)に目をとめて見ます。マリア様は女性らしい気遣いを見せ、足りなくなったぶどう酒についての心配を、イエス様に話されました。わたしたちは、日々の出来事、特に気にかかることをこんな風にイエスに訴えているでしょうか。悩み、煩い、気がかり、いろいろな心にかかることをマリアのように素直な心でイエスの前に投げ出したいと思います。

第二は召使たち。マリア様が「この人の言うとおりにしなさい」と言われたものですから、とてつもないイエスの命令に素直に従った彼らのことを思うと、意味もないように見えることに、ぶつぶつ文句を言っている自分のことを反省します。

そして、上等のぶどう酒のこと。イエスが水から変えられたぶどう酒は、口うるさい世話役さえうならせる、上等のものでした。それがどこから来たのか、彼は知りませんでした。けれどとても良い物であることを知ったとき、その婚宴の花婿花嫁を褒めるのです。上等のぶどう酒を与えた本当の方のことは知らないでいても、良い物はどこから来るのか、この世話役のように、素直に感心できるでしょうか。「良い」と分かっていても、しがらみややっかみ、嫉妬や恨みに目を曇らされているわたしのことを考えます。
イエスが行われたことは、本当に信頼すべき方は誰かということでしょう。もうすでに恵みはあふれんばかりに与えられているのに、わたしたちは気がついていない、そんなことになりたくないな、と思うのです。


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1月27日 年間第3主日 
ルカ1章1~4節、4章14~21節  


「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。」(14節)
ルカ福音書で、イエスの福音宣教活動の始まりが今日読まれます。
わたしたちにとって、主日(日曜日)が大切なように、当時のイスラエルの民にとって、安息日はとても大切で、神の民としての義務を行い、みことばを聞き、祈る一日でした。
会堂でイエスが読まれたのは、イザヤ書ですが、福音記者はそれをギリシア語で、しかも二ケ所を編集してここに上げています。別々の箇所を編集してここに載せていると言うことは、編集者がきちんとした意図をもっていることを示しているでしょう。つまり、この二つの箇所をここに載せることが必要だったともいえるのです。

救い主(メシア)の活動の中心は「福音を告げること」なのですが、それは具体的に3つのことによって知らされます。それが、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由」(18節)にするということです。
イエスのことばが具体的に囚人を解放したのでしょうか、また、目の見えない人に視力の回復をもたらす奇跡のわざが重要なのでしょうか。

そうではなく、イエスのつげ知らせた「福音(良い知らせ)」は、苦しむ人々が決して神様から見捨てられていないのだ、という、究極の幸いの知らせであったはずなのです。イエスはその知らせを携えて、人びとの前に現れました。だからこそ、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)と宣言されたのです。
今ここに、神の愛が表れている、それ以外にイエスの関心はありません。人が神から愛されているなら、人と人との垣根は取り掃われなければなりませんし、社会から見捨てられたり、抑圧されたりしてはならないのです。人は、神から大切なかけがえのない者とされていること、これこそがイエスの福音です。

ですから、「自由」を二回繰り返し、真の自由とは神とともにあることなのだとイエスは告げ知らせ、神の恵みの「時」が今ここにあると宣言するのです。
わたしたちは、「恵みの時」を見損なってはいないでしょうか。イエスのことばを心を開いて受け入れることができますように。


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