主日の典礼

5月5日 復活節第3主日 
ヨハネ21:1-19 

 「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。」21章7節

弟子たちはガリラヤ湖付近に戻り、日常生活を始めようとしています。イエスの受難と死、復活の出来事は、彼らに何をもたらしたのでしょう。ヨハネによる福音では、イエスの復活顕現の後すぐに「聖霊」を受けている弟子たちですが、ここでは、まるでイエスと出会う前のようにペトロたちは漁に出かけています。

わたしたちはどうでしょうか。復活したイエスに出会って変えられていますか。それとも、その感動がどこかに行ってしまい、また普通の日常に戻ってはいませんか。わたしたち一人ひとりにイエスは復活し、出会ってくださっているのですが、それと気が付くのは、日常に埋没している私にとって、とても困難があります。

どうしても自分を優先させ、自分の都合をつけてしまい、自分の感じ方でなんでも判断してしまいます。それだけでなくそれが「絶対」だと思い込んでしまい、網を下ろすことに夢中になってしまいます。

 ペトロは漁に出かけましたが、何も取れず、がっかりしていました。そして、岸辺にいる人のことばで網をうつと、大漁になります。「以前にこんなことがあったような…」と考えていたら、他の人が「主だ」と声をあげました。

一生懸命になることは悪い事ではないはずです。ペトロもいつも一生懸命ですから、イエスはそんなペトロを大切に思っていたことでしょう。でも、イエスと出会うためには、一生懸命に自分の考えだけにはまっていてはならないのではないでしょうか。時には、馬鹿らしいと思えるような他の人のことば、愚かしいと感じるような行動、どんなに必死になっていても他の人のことばに耳を傾けることができるでしょうか。そんな時、いやいやでも耳を傾けると、そこには「主がおられる」ことに気が付くときになることもあるのです。
 わたしたちは、人のことばに耳を傾け、自分の「一生懸命」を潔く手放すことはできるでしょうか。


Go to Top


5月12日 復活節第4主日
ヨハネ10:27-30


わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」 10章27節

イエスに知られているのは、わたしとあなた、そして、他にもたくさんいます。たくさんいるからと言って、一人ひとりがないがしろにされることはありません。人間だと、おぼえている人の数にも限界があり、たくさんの人に平等に愛を注ぐなどということはできません。必ず好き嫌いがありますし、気の合う人、会わない人があります。それは当然のことだと思います。

 けれどイエスにとって、一人ひとりは特別な愛情の対象です。どの人がどうとか、というわけではなく、一人ひとりが、本当に、特別に愛していただいていること、それを忘れないでいたいです。

 わたしたち人間は、ついつい、自分の感覚で神さまのこと、イエスのことを考えてしまいがちです。「こんなことをしたら、神様は赦さないだろう」とか、「わたしが感じるように神様も感じているはずだ」とか、「絶対神さまだって赦さないはずだ」とか。

 いろいろなことで、神さまの愛情を限定的にしてはいないでしょうか。無限の愛、と言いつつ、そこに制限を設けてしまうのはわたしです。本当は制限なしなのですが、それを創造することさえ難しい事です。

それくらい神さまの愛とわたしたちの感情はかけ離れています。それなのにイエスは、「わたしは彼らを知っている」とおっしゃるのです。

イエスに知られていること、神さまに知られていることをもっと真剣に考えたいと思います。神さまがわたしの隠しておきたいことも、自慢にしたいことも、良いところも悪いところも、何もかも知っておられるということです。

そんな愛情を信じきれないのがわたしたちです。弱く愚かな、どうしようもないわたしたちに向かって、今日もイエスは、神さまは「わたしはあなたをよくよく知っているんだよ」とおっしゃるのです。


Go to Top


5月19日 復活節第5主日 
ヨハネ13:31-33a、34-35


「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」13章34節

イエスが最後に弟子たちに与えた掟は「新しい掟」です。それは「愛しなさい」というだけではなく、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われる掟です。
 イエスが弟子たちを「愛した」ように、とは、どのような愛だったでしょうか。

イエスはご自身を与えました。言うのは簡単なことですが、それはとてつもない事だったと思います。わたしが、誰かのために自分を与えることができるでしょうか。いいえ、そんなことできるなどとは言えません。もしかしたら、そのような機会が与えられて、知らずに与えることがあるかもしれませんが、イエスのように、正面から自分の死を受け止めるように突き進んでいく生き方は、とてもできないと思います。

「復活できるはずだし」というのは、死を受け入れるための理由にはならないと思います。人間にとって「生きる」ことが何よりも優先されることですから、自ら死を選ぶことはとても困難なはずです。

だから、日本で自死を選ぶ人、しかも若い人が自死することが多い事は、本当につらい事だと思います。まだまだ人生の喜びも、美しさも知らないうちに絶望にとらわれて自分の行く先を見いだせない人々、彼らがその苦しみを分かち合える人がいなかったのでしょうか。わたし自身も彼らの痛みを分かち合うこともしなかったことを悔やみます。何もできず、手をこまねいているしかないわたしです。

 そのように、つらいつらい「自分の死」を、人のためにささげることができるまでに、イエスは弟子たちを愛し抜かれたのです。それと同じようにしなさい、とはなんと厳しいことばでしょうか。

 ただ、イエスのことばに従って、自分の死を捧げた多くの人がいます。教会の聖人たち、他にも、多くの宗教者、名もない人々。人のためにいのちを捧げた人々は、声高に「こんなことをしました」とは言いません。多くはひっそりと、世界の片隅で忘れ去られていった人々だったでしょう。そして、直接にいのちを捧げはしなくとも、人生のすべてを人のために捧げた人々もいたことでしょう。先に歩んで行かれた多くの人々を見つめつつ、すべてを捧げることができないと嘆くよりも、日々、毎日、一瞬一瞬をイエスと共に歩んでゆくことができたら、と思います。


Go to Top


5月26日 復活節第6主日  
ヨハネ17:20-26  


「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」17章23節

「わたし」はイエス、「あなた」は御父であり、「彼ら」は弟子たち、そして弟子たちのことばを信じてイエスにしたがうすべての人のことです。
イエスはわたしたちの内におられます。それは御父がイエスをとおして、わたしたちの内におられることです。でもひとつ条件があります。弟子たちのことばを聴き、イエスの後にしたがおうとする人々は、それを表すために「一つ」になるはずなのです。

この世界は、いまだ一つにはなっていません。世界だけでなく、一つの国の中も、日本の社会も、いろいろな共同体も、なかなか一つになれません。本当に一つになれるのでしょうか、人間の社会は。

「一つ」という意味が大切だと思います。「画一化」でもなければ「言論統制」でもないはずです。今の社会は、どちらかというと多様な意見を尊重するのはおかしい、何が何でも一致させる、あるいは、多数の意見こそ正しいのだ、という風潮が強いと思います。それは本当なのでしょうか。あるいは、個人の意見を尊重しすぎる、といったことも感じられます。「自分さえよければ」という状況も、「みんなが何が何でも一緒」ということも、どちらもイエスの言われる「ひとつ」とは違っています。

多数決は民主主義の原理ですが、それは少数の意見を無視してよいということなのでしょうか。 そもそも、多くの人の意見が通る、ということだけでは本当の「主権在民」にはならないと思います。少数者の意見をきちんと拾い上げる機能が存在することが大切だと思うのです。そうでなければ、現代の社会は大きな声の人がすべて取り仕切ってしまうことになりかねませんから。

「一つになる」ということは、意見の違いを無理やり一つのまとめることではありません。違いがあることを受け入れ、その違いによって、不利益をこうむることのないような社会、そのような社会がいのちの尊厳をきちんと知った社会であるのではないでしょうか。

人間が何人か集まれば、そこには必ず意見の相違があります。「正しい」とか、「間違っている」とかで判断することも必要な時がありますが、またそれとは別に、みんなそれぞれ正しい事もあります。すべてを一つにまとめてしまうことがけっして良い結果を生まないことを歴史は証明しています。ですから、イエスの言う「一つにしてください」は画一化ではないのです。イエスのもとに、一つに集まり、一人ひとりが大切にされる共同体。そのような共同体を理想として努力し続ける人々。それは決して夢物語ではないのです。イエスの思いが一人ひとりに浸透し、心から自分と自分以外の人々を大切にしてゆくことができるよう、わたしたちは招かれ続けているのです。


Go to Top