主日の典礼

7月7日 年間第14主日 
ルカ10:1-12,17-20 

 「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(2節)

イエスが弟子たちを派遣するのは、神の国の福音を「宣べ伝える」ためですが、それが目的なら、なぜ二人づつ遣わすのかとか、いろいろ持っていくなという命令は何のためなのか、と考えることもあります。

福音宣教は、教会の務めとして根本的なものです。宣教しない教会は死んでしまいます。教会とは、本来外に向かって「宣べ伝える」共同体なのです。

とはいえ、勉強もしていないし、何を言ったらよいのかわからない。何より、自分は弱いし、そんなおこがましいことなどできない、と多くの信徒は考えてしまいます。けれど、弟子たちも「宣教者養成講座」を受けているわけでもなく、心理学の授業や、カテキズムをきちんと習っているわけでもないのは、もちろんお分かりのことでしょう。それでも、イエスは、彼らを遣わしました。

「派遣」という言葉には、使命を託して遣わす、あるいは命令して出張させる、というような意味があるかと思います。これは派遣される人の特性や能力を考慮して行われることが普通です。けれど、イエスのなさりようは、いわば無茶苦茶です。

出来ないとわかっていても、彼らに仕事を託し、宣教に派遣するのです。イエスは、彼らに能力があっても無くても、偉大な成果を上げるだろうと期待しているのでしょうか。それとも、挫折ばかりしても、大したことはないと考えているのでしょうか。

ここで考えられることは、イエスの派遣への思いです。イエスは期待して彼らを送り出しました。それは「すごい成果」を期待するのではないのです。弟子たちが派遣によって、さらに強く、たくましく、信仰に生きるようになって戻ってくるのを期待しているのだと思うのです。

わたしたちは、派遣される側の感情ばかりをつい考えてしまいます。自分が「派遣」される側であることが多いからでしょうか。教会の中で、宣教に携わるようにと、言われるからでしょうか。それよりも、この何もできない、どちらかというと、迷惑ばかりかけている、頑固で、融通の利かない、そのくせ自意識ばかり強い弟子たちを派遣するイエスの勇気を考えてみませんか。イエスはあえて、彼らを派遣するのです。完全な宣教者を派遣するのではなく、不完全な足りないところだらけの弟子たちを派遣なさいます。

それは、宣教の使命が人間の技、仕事、力では到底なしえないことであると知っておられたからでしょう。

そうです。わたしたちも知っています。福音を告げるとは、並大抵の能力ではできないことを。それでも遣わされるのです。不完全で、どうにもならない者、それでも、イエスを伝えたいという意識を持つわたしたちが、何か、言ううに言われぬ力に突き動かされて、この信仰の喜びを伝えたい時、わたしたちは派遣され、宣教する教会の一部となり、喜びを人々と分かち合う共同体となるのです。


Go to Top


7月14日  年間第15主日
ルカ10:25-37


「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 (36-37節)

有名な「良いサマリア人のたとえ」です。「隣人とは誰ですか」という律法の専門家の質問にイエスは「誰がその人の隣人となったか」と問い返されました。

 質問を問いかける人の内には、いつも「自分から見たこと」「自分が感じること」「自分の想い」というものがあります。この律法の専門家も「自分から見た隣人」「自分が隣人だと考える人」のことが中心にあったのでしょう。だからイエスの問い返しは思いがけないことだったと思います。

 隣人とは自分が見て決めるものなのでしょうか。

その人に関心がなければ、隣に座っている人も、隣人にはなりません。電車の中で、スマートフォンに興じている人々は、距離的には近くても、隣人同士にはなりません。かえって、ラインでつながっている人のほうが、ずっと近いかもしれません。けれど、ライン上の彼らも「隣人」同士でしょうか。

わたしは隣人とはだれか、と問われたとき、わたしにとっての最も大切な人々のことを考えます。けれどそこで留まることはできません。実にわたしの隣人とは、イエス自身なのです。いいえ、イエスの隣人がわたしです。イエスこそ、倒れて死にそうになっているわたしを助けてくれる隣人なのです。それをつい忘れてしまい、自分勝手な基準で、隣人の枠を決めてしまっているわたし。本当は、イエスが隣人となって、わたしを助け、同伴し、一緒に歩んでくださっている方なのに。

隣人とは、自分で決めたり、自分でこうだと基準を決めるものではないのでしょう。イエスの隣人が「わたし」であり「あなた」であるならば、わたしたちの隣人は、「イエスに愛された人々」すべてのはずなのです。

イエスは「サマリア人」という差別された人の立場に立たれ、人を助けられます。それは 律法の専門家にとっては皮肉なめぐりあわせです。彼らが差別し、さげすんでいた人が、「隣人」となったのですから。律法の専門家も自分の隣人が誰かをもう一度考えることができたはずです。わたしたちも、自分の限界や思い込みを取り払い、開いた心で「隣人」になることを選択できるのではないでしょうか。


Go to Top


7月21日  年間第16主日 
ルカ10:38-42


「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(40-42節)

師イエズス修道女会の創立者である福者ヤコブ・アルベリオーネ神父は、ある日、シスターにの問いに答えて今日の福音箇所である「ベタニアの家」をもとにした祈りをわたしたちに与えてくださいました。師イエズス修道女一人一人が、マルタとマリアの両方の役目を果たし、もてなしと奉仕の使命に生きることができるようにと祈るものです。

ここでいわゆる「働き者のマルタ」と「祈りに集中するマリア」の二人が対比されているのですが、どちらが良いのか、悪いのかを比較するものではないと思います。

わたしたちのキリスト者としての生活は、この両方を同時に携えて進んでゆくものではないでしょうか。どちらか一方だけ、というのは無理というか、難しいというか、片手落ちというものではないでしょうか。

祈りだけ、活動だけでは本当はうまくいかないような気がします。祈りを欠いた実践は、人間的な面だけに終わりそうですし、実践を伴わない祈りもまた、つまづきとなります。どんな活動や祈りも、そのどちらをも忘れないことがことが大切だと思います。

とはいえ、マルタの言葉と行動は、活動しているとき、ついつい出てしまうことです。「自分はこんなにやっているのに、あの人はちっとも働かないで……」イライラが高じて、つい愚痴を言ってしまうかもしれません。でも言ってもいいのだと思います。マルタがイエスに向かって愚痴を言うことは、イエスを信頼し、イエスから慰めが受けられると期待しているからです。いただいた言葉は、ちょっと思惑から外れていました。けれど、イエスはマルタをまっすぐに見て、彼女に話しかけられたのです。「ええっ!そんなこと言うんですか、イエス様」と彼女はがっくり来たことでしょう。でもイエスの言葉はマルタにだけ向けられたものです。それがどんなにすごいことかを、噛みしめるべきでしょう。マルタは決してイエスから見捨てられたり非難されたりしているのではありません。「わたしのほうをきちんと見なさい、わたしもマルタのほうをきちんと見ているんだよ」というイエスの言葉が、マルタにはきっと聞こえたと思います。


Go to Top


7月28日  年間第17主日  
ルカ11:1-13  


「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」 (9-10節)

どんなことでも求めれば与えられるのでしょうか。わたしたちはどこか、神様を信じ切れていないで、つまりお願いしていても、祈っていても、心のどこかでは「多分だめだろうな」と考えていることが多いのではありませんか。この徹底のない姿勢というのが、わたしたちの祈りの「深さ」を妨げているように感じます。先日読んだ御受難会の来住神父さんの「キリスト教は役に立つか」(新潮社 二〇一七年)には祈りについて、信じることについてとてもやさしいアプローチで説明をしてくださっています。わたしにとって、とても良い本でした。

その中に「なぜ願いが叶わなくても信じる人がいるのか」という問いかけがありました。

これはわたしたちへの問いかけです。祈っても、教会活動をしても、世界はちっとも変わらないではないか、という疑問が確かにあります。でも、確かに祈り続ける人がいます。

神の存在を信じていても世界の悲惨さは後を絶たない、これが現実です。大きな自然災害、戦争、内戦、理不尽な事件や事故、そして病気や死、特に小さな子供たちの死はわたしたちの心に問いかけます。「神様はどうしてこれを見過ごされるのか」。

わたしたちにはわからないことだらけです。「求めなさい。そうすれば、与えられる」とおっしゃっているのに、なぜ求めても与えられないのでしょうか。

求めてもかなえられないのは、自分勝手な祈りだからでしょうか。ご利益を求めているからでしょうか。そうではないと思います。願いや祈りは、他人のためにするものだけではなく、自分のためにもするもので、それは、「病気が治ってほしい」「良い学校に入れますように」「この問題が解決してほしい」などなど、本当に心からの願いです。

願いは、口に出し、祈りをささげたときにかなっている、とも言われます。でも様々な病気は治りませんし、助かるようにと祈ったあの人も、天国に行ってしまったのです。どうしてでしょう。叶う祈りもあれば、叶わない祈りもあるという現実。それが本当なのでしょう。何が叶えられて、何が叶わないかは、わたしたちの思いや見方ではわからない「神秘」です。

だから、「祈っても仕方がない」ではなく、「祈ることが重要」なのではないでしょうか。必ず叶うとわかっていては、祈る必要もないのです。祈りは祈る人を変え、祈る内容を深め、祈りの姿勢を変えていきます。祈ることによってこそ、叶うことがある、とわたしたちは知っているのです。祈りによって、ともにいてくださる神・イエスと語り合うことによって、痛みに満ちたこの世界に希望があると、決して絶望することはないのだと、信じてゆくことができるのではないでしょうか。


Go to Top