主日の典礼

6月2日 主の昇天 
ルカ 24:46-53 

 「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 (49節)

復活節も終わりに近づいてきました。主の昇天とは、わたしたちとどのような関係があるのでしょうか。神であるイエスが天上に行かれた、ということがわたしに何の関係があるのでしょうか。

「天に昇った」「昇天する」とは、地上のしがらみ(時間や空間)にとらわれない世界に行くということではないかと思います。わたしたちは地上で、時間、空間に縛られて、この人生を歩んでいます。その中にイエスが介入してくださる、ということではないでしょうか。

わたしたちは普段イエスの存在など関係ないように生活しています。それはそれはそうでなければならない時がある、ということもありますが、あえて、イエスを生活から切り離しているということもあります。生活と信仰がどこか遊離している、とはよく言われることです。日曜日にミサに行き、教会の活動もそれなりに行うけれど、週日は「イエス」をどこかにしまいこんでいるのではないでしょうか。だから普段、人の前で十字架を切ることもなく、祈りを唱えることもちょっと躊躇し、いろいろな考え方もイエスの思いから少しずれてしまっているのです。

確かに、何から何まで、すべて福音の想いに照らし合わせて行動することは、あまりに理想論だ、と言われてしまうかもしれません。生活のすべてをイエスの想いで行動できるか、と言われれば難しいと思います。といっても、まったく信じたことと離れて生きることもできません。毎日私たちはそのはざまで悩んだり、苦しんだりしています。

それを感じていること、その「隙間」(福音と実際の生活の間)を感じることが大切なのだと思います。それも感じないでいたなら、「自分はよくやっている信者だ」「生活も支障がない」と思っていることになるでしょう。

そうではなくて、福音ではイエスのように行動することが言われている、だから自分もそう行動したいし、人を愛したい。でも愛せない、憎んでしまう、うまくいかない、等々、隙間の苦しみ、呻き、嘆きがわたしたちを福音自体へと導くのです。そんな私たちのそばに立たれるのが、死を超えて復活し、今、ここにおられるイエス自身なのです。

天に昇られたイエスは、消えてしまったのでも、どこか遠いところで泰然自若としておられるのでもありません。イエスは苦しみ呻いているわたしたちのそばで、その苦しみを担うために十字架をかついでおられます。それを忘れることのないように、日々の生き方を大切にしたいと思います。


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6月9日 聖霊降臨の主日
ヨハネ20:19-23


イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(21-22節)

聖霊の働きに感謝したいと思います。わたしのそばで、中で働いておられる聖霊は、常に正しく導いてくださっているのです。でも、わたしは間違うし、失敗もします。取り返しのない失敗もあるかもしれません。それでも、聖霊、わたしたちとともにおられ、助けてくださる神は、決して私を見捨てることはないのです。

 とはいえ、何もかもがうまくいくような超能力は決してこれからも与えられないと思います。本当は、「人の考えが、わかるような力」「決して失敗しないしゃべり方」「人の心を傷つけることなく行動できること」などの力も欲しいし、なんでもうまくいって、お金も儲かって、人から褒められ認められ、ついでに、容姿端麗で、病気にもならず……、というようなことは、望んでもかなえられることはないと思います。誰でも、うまくいく人生を望みますが、誰一人思い通りになった人生などありません。あるはずがないのです。

 人は自分勝手に「素晴らしい人生」を夢見ますが、それは神様が考える「素晴らしい人生」ではないでしょう。神様は勝手なのでしょうか。人間のことなど考えていないのでしょうか。

罪なくして苦しむ多くの人がいますし、まだ若い盛りで命を奪われてしまう人もいます。病気に苦しむ人、様々な苦しみに出会い、この人生は最低だと考える人も確かにいるのです。

そんな人々のそばにも聖霊がおられること、それを知らせないのは、わたしたちの罪です。どんな人も神様のまなざしが注がれ、幸せになってよいのだ、ということを聖霊が告げているのに、わたしたちの怠慢、罪、無関心、冷淡さがそれを阻んでいます。

聖霊は熱い炎です。わたしたちの冷淡さ、無関心を焼き尽くしてくださるようにお願いします。聖霊がわたしたちを導き、聖霊がわたしたちを駆り立て、わたしたちに神様の熱い思いを伝えることができるよう、助けてくださいますように。


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6月16日 三位一体の主日 
ヨハネ16:12-15


「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(13節)

イエスの言葉が、とても難しく、わからない時があります。あるいは、意味は分かっても、実行するのが難しい時があります。珍しいことではなく、信仰の道を歩んでいたら、そんなことがままあると、どなたも体験なさっているでしょう。

イエスの言葉、御父の言葉をわからせてくださるのは聖霊です。それは、頭の良さとか、教育を受けたとかは関係なく、信じて受け入れるかどうか、また、信じたいと思っているかどうかにかかっているようです。

人間は、おそらく自分で思っていること、自分が望んでいること以外は理解したくないし、実行したくないのではないでしょうか。わたしたちは勝手で、気ままで、自分中心です。そんなわがままな私たちを聖霊が導いてくださるのです。それは、御父の言葉とイエスの行いをわたしたちに体験させてくださることなのではないでしょうか。

わたし自身も、「心が閉じているな」と感じるときは、多くは「自分のこと」しか考えてなかった時です。どうしても自分を優先させたい、と感じます。戦いは一瞬一瞬、どれを選ぶのか、何を優先させるのか、本当に苦しい道が続きます。負けることが多いのです。負けても、戦いはまだ続きます。いつもそれに負けっぱなしかもしれません。それでも、続いて戦うのを神様が望まれています。勝手な理屈で逃げ出すこともできるかもしれません。でも、わたしたちに「御父・御子・聖霊」の命を示してくださった方から、本当は逃げられるはずもないのです。生きるとは、そんな戦いの日々です。

 様々な痛みや苦しみが存在するこの社会の中でも、多くの人が必死になって生きています。わたしたちも必死になって生きてゆくために、聖霊の力を願います。イエスは御父のもとに帰られ、そして聖霊を遣わされました。神様は、今もいつもわたしたちを導き続けておられます。それはダイナミックで力強い助けです。誰もがその助けを感じるために、聖霊に、そして御父と御子に心を開いてゆけるように祈っていきたいと思います。


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6月23日 キリストの聖体  
ルカ9:11b-17  


イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。(16-17節)

イエスはこの奇跡をどのような気持ちで行われたのでしょうか。今日の福音はルカ福音書ですが、マルコ福音書ではイエスが「よい牧者・神」である方として描かれています。ルカは、マルコが詩編23を意識したように「牧者のいない羊のような群衆」「青草の上に群衆を座らせる」という表現を省いているので、マルコとは違った視点でこの供食の軌跡物語を描いているようです。

ここで目立つのは、イエスの言葉に従うつもりがる弟子たちが「どうやってこのたくさんの人に食べさせることができるのか」と、まったくお手上げ状態のように言うことです。自分たちではできません、ということが全く自明のこととして描かれています。ところが、イエスは少ない食べ物から多数の人々を養う食べ物を出現させ、それを配ることを弟子たちに命じられたのです。

わたしたちはどうでしょうか。できることはできることで、それはとてもいいことでしょう。それなのに、できないことには消極的になり、自分自身を閉じてしまいます。誰が、というより、わたし自身がそうなので、人に何か言える立場ではないのですが、それでも、「できることがあるんだからいいよね」「できることで奉仕するから…」と言いたい自分がいます。

それを超えることをイエスは望まれているのでしょう。それは自分の力に頼っているわたしにはとても難しい、自分のことにこだわり、うそをついて守っていきたいものがある自分には、とても難しいことです。

パンを食べるということは、いのちをいただくことです。毎日ミサで命の糧をいただいているわたしたちですが、それをもっとよくよく味わい、イエスのいのちが、わたしのうちに生きるために、「自分」を少しでもイエスに変えていただけるようになりたいのです。とはいっても、なかなか変われません。本当に信頼も、信じてもいないことがばれてしまいます。こんなわたしのもとに、イエスは「パン」として今日も来てくださっているのです。


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6月30日 年間第13主日  
ルカ9:51-62  


一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(57-58節)

イエスのゆくところにどこにでもついていきたい、と思うのは誰しも同じです。けれど、いろいろあります。今日は用事があるから、明日は約束しているから、病気だから、仕事だから、家族がいるから、一人だから……。イエスはそんな一人一人にそれなりの答え方で良い、とはおっしゃいません。「覚悟がいるのだ」ということをはっきりと伝えておられます。

いろいろな覚悟が必要だと思います。イエスが求めることは「今はちょっと」ではなく「すぐに」という覚悟でしょうか。

従います、明日」ではなく、「今日、今すぐに」というのは、とても難しいことです。誰もが、自分のしたいことを置いて、ほかの人の命じることに従うことには抵抗があるのです。

本当に、人間は自分からすること、自分の利益、自分の興味に関しては貪欲なのですが、そうでないことには、冷淡で、後回しにしてしまいます。イエスの要求には答えたい気持ちはたくさんあるのです。それがほかの人を通してくるとき、どうしても従えない自分がいます。

おそらく目をつぶって知らないふりをしているのです。いえ、そもそも、イエスの言葉に従うつもりがあるのでしょうか。約束したことを忘れて(洗礼の時、修道誓願宣立の時、あるいは堅信や結婚の時の約束)、自分のことを考えて、神様との約束などしなかったように思っていないでしょうか。

イエスは厳しい言葉で弟子たちを招きます。それは一人一人がイエスに招かれ、愛されていることなのです。招かれるとき、義務や負担のことを考えてしまいがちですが、それと同時にイエスのやさしさ、援助、励まし、愛情が豊かにあることを、もっともっと感じるようにしたいのです。それを感じることができるかできないかは、やはり自分にかかって知るのでしょう。本当にイエスの言葉を真剣に考え、それに身を投げ出す「覚悟」を忘れないようにしたいと思いました。


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