主日の典礼

4月7日 四旬節第5主日 
ヨハネ8章1―11節 

 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(7節)  多くの場合「罪」であると決めつけるのは、わたしたち自身です。神様は、それが罪だとか、悪いことだとか、あからさまにお告げを授けることもなさいません。旧約聖書で預言者ナタンがダビデの罪を教えるのですが、実は、ダビデ自身が自分の罪を宣告してしまうのです。(サムエル記下11章~12章参照)

どんな凶悪な犯罪でも、その犯罪を犯した事情というものがあると思います。被害者の方にすれば、どんな理由であれ、被害を受けるという理不尽さに憤られるとは思いますが、人は、たった一人で犯罪を犯すわけでもなく、また、素晴らしいことができるわけでもありません。誰もが、社会の中で、それぞれ、人と人とのつながりをもって、生きてきたからです。つまり、「事情がある」とはそれを指すのだと思います。

事情はいろいろあっても、それが犯罪や罪を犯してもよい、という理由にはなりません。どんな状況にあっても、ある人は正しく生きることができ、ある人は罪を犯してしまいます。そのはざまというものが何かを、罪を見つめるときにしっかりと見据えなければならないのではないでしょうか。そして。その境目は、簡単に超えられるもの、つまり、だれでも罪を犯すことがあるという真実です。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は、それぞれの人が自分がいかに簡単に罪を犯すかを知っているからこそ、言える言葉ではないかと思います。一人一人がそれを知っているならば、誰かが罪を犯したからと言って、簡単に断罪できるでしょうか。今日の福音にある「姦通した女性」に対する人々の目線は、自分は大丈夫、自分は正しい、といった上から目線の人々の行動であったのでしょう。しかも、女性は一人、断罪しようとする人は多数でした。こんな場合に、弱い人の立場に立てるということは、本当に難しいものです。イエスは恐れず、その女性の立場にたって、しかも、多くの人が何も言えなくなるような言葉によって、「罪であること」の不条理さを断罪されるのだと思います。

わたしたちは、イエスのそばにいると考えていても、そのような力あるみ言葉を聞くことができているでしょうか。

一人ひとりが違う存在で、それぞれが神様に本当に愛されている存在であること、わたしたちはこのことをまだまだ理解できていないと思うのです。


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4月14日 受難の主日
ルカ23章1―49節


「イエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。(43節)

額(ひたい)に灰を受け、「回心して福音を信じなさい」と唱えられる時、わたしたちが何を信じ、どこに行かなければならないかを、強く思い起こさせます。

 四旬節もクライマックスを迎え、木曜から典礼暦年の頂点というべき、「聖なる過越しの三日間」が始まります。この三日間の祭儀に参加しない場合、受難の主日から、急に復活の主日に飛んでしまいます。すると、主の復活という出来事が、何か通り一遍のものとなるように感じます。主の晩餐(木曜日)、主の受難(金曜日)、復活徹夜祭の祭儀にあずかるか、そうできない場合には、その日の朗読箇所を読むなどして、教会の典礼の頂点を味わえるようにしたいものです。

 とはいえ、修道院(八王子)でも、神父様を確保するのが年々難しくなっています。高齢のシスターたちが教会に行くのも大変なので、これからは、どんなふうになるのかなと考えてしまいます。

今年の典礼はルカ福音書を中心に読まれていますので、受難の主日の福音もルカからです。ルカ福音書の御受難のイエス様は、わたしにとってはとても饒舌なイエス様です。優しさと強さを併せ持った言葉を人々にかけるイエス様。わたしたちの想像しやすい、どちらかというと、受難の残酷さとは、少し隔たりを持ったイエスのように思います。このようなイエスにむかって言葉をかけた十字架上の盗賊は、イエス自身から言葉をもらい、いわゆる「天国泥棒」になったと考えられています。「天国泥棒」とは、臨終洗礼を受ける人のこと言うこともありますが。

でも、考えてみてください。泥棒であれ、詐欺師であれ、本当に回心しなければ、臨終のとき洗礼を受けようとか、信仰を表明しようという気にもならないと思います。また、死んでゆく人のそばに洗礼を受けさせようと思う人がいなければ、そのような機会は永遠になかったのではないでしょうか。

ですから、心の中でどんなにイエスのこと、神さまのことに心を向けていても、そう表明しなければどうにもならないのでしょうか。以前言われていたように、洗礼を受けなければ、みんな地獄に行くのでしょうか。

わたしたちには、わからないことがたくさんありますので、こういった事柄は、やはり「解らない」と言うしかないと思います。断定は誰にもできないのです。どんなに立派な生涯を送ったように見えた人でも、神さまのもとでどのような評価を受けるかは、神さまの前でしかわからない事なのです。教会は謙虚にそのことを言い表すようになりました。「地獄に行く人がどれくらいあるのかは、だれも知りません。ただ各人、人間の持つ可能性を知り、自己を戒めるべき」(『カトリック教会の教え』158―159ページ参照)なのです。ここでの「可能性」とは、「人には神の意志に全面的に逆らう」ことが可能である、という「可能性」です。

人は、最終的に神様に従うことができるかどうか、自分にかかっています。とはいえ、恐れ怯える必要もないのです。わたしたちは、今日、イエスの受難、死、復活という神秘をとおして、永遠のいのち、神との一致を約束されたことを知っているからです。


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4月21日 復活の主日(復活徹夜祭) 
ルカ24章1―12節


「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」24章5―6節

主のご復活、おめでとうございます。

復活徹夜祭は、光の祭儀から始まり、「キリストの光」「神に感謝」という力強い宣言によってキリストの復活を知らせます。

一年に一度、何にも代えがたい主の勝利の喜びを、わたしたちは「徹夜」することによって体験し、祝います。

また、この夜、教会では入信式が行われ、四旬節の間準備を重ねてきた洗礼志願者と小教区の共同体は、新しい民を迎えて喜びます。こうして、教会は毎年若返り、主と共に歩み続けるのです。

 多くの場合、復活の信仰は、単なる「よみがえり」のことと勘違いされていますが、キリスト者としてそれを信じているか、と尋ねられた時、はっきりと宣言できるようになりたいと思っています。主の復活は、単にいのちが戻ったり、生き返ったりしたことではなく、本当のいのち、神のいのちに組み込まれた、新しい存在になったということなのです。

神様のダイナミックな、永遠のいのち、あふれる愛、いつくしみの中に、イエスを信じた人々は復活することができるのです。この偉大な神秘を心から信じ、その希望に生きることができますよう祈りましょう。そして、今苦しんでいる人々、神の愛、人の愛を信じることができず、絶望しそうな人々のためにも祈ります。すべての人に、主の復活が意味ある物となりますように。どんなことがあっても、主は復活されたと信じ続け、絶望と苦しみを超える希望といのちと愛があることを信じ続けることができますように。

本当に、主が復活されたからこそ、わたしは今ここにあるのだと、宣言し信じ続けます。

主を探す婦人たちのように、ここ(お墓)ではなく、ガリラヤ(わたしたちの生活の場)に主はもう待っておられるのです。


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4月28日 復活節第2主日  
ヨハネ20章19-31節  


「イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(20章19節)

復活節にはヨハネ福音書が読まれます。第二主日は「主のいつくしみの主日」で、この日読まれる個所は、イエスが閉じこもっていた弟子たちのところに現れる場面です。「主の復活」の日曜日の福音では、マグダラのマリアが空の墓のことを弟子たちに知らせるところでしたが、今日の福音はその続きで、家に閉じこもっていた弟子たちの「真ん中」にイエスが出現したというところです。

昨年の復活節の主日の分かち合いで、「真ん中」にイエスが来られた意味を書いたのを思い出しました。今年も、また、イエスがとてつもない時に、つまり、弟子たちが絶望して、どうしようもないと思っている時に、突然現れたことを考えます。イエスは本当に復活されているのに、弟子たちはまだ一歩も進めません。イエスの復活の予告のことをすっかり忘れていたのでしょうか。

わたしたちも、目の前の悲しみや困難にとらわれて、イエスのいのちの福音を忘れてしまいます。病気や事故、苦しみ、困難、失敗、愚かさ、自分ではどうしようもない事がわたしたちの人生に次々にやってきます。それに振り回され、目が見えなくなり、あっという間に「悪」に巻き込まれてしまうこともあります。

わたしたちはもろくて弱いのです。悪の力に簡単に負け、それを意識することもできないでいます。時間や空間に幻惑され(つまりまだ「時間があるよ」とか、「こんなことたいしたことない」とか考えてしまいますので)、自分の弱さも悪も見つめきれないのです。

そんな私の真ん中にイエスが来られるのを妨げてはいませんか。

本当は、力強く、負けることのない勝利のイエスを、わたしたちは悪のいざないによって、拒んでしまうことがあるのです。どうか、イエスのいのちが、復活のいのちが、わたしたちを新しくしてくださいますように。信じるものとして、イエスを迎え、「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と叫ぶことができるよう、祈り続けたいのです。


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