主日の典礼

3月3日 年間第8主日
ルカ6章39-45節 

「なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」ルカ6章41節

 人の欠点がいつも目につきます。実は、人がやっていて気になることというのは、わたし自身にもあることなのです。似ている人ほど気に入らない、と思うらしいのです。だから、気になることを繰り返す人のことを見るのは、自分がそれと同じことをしているのだ、と気が付くきっかけになるでしょう。

ところが、わたしたちが自分をあげる「棚」の、なんと広く大きい事か。自分のことは「棚に上げて」(つまり見ないことにして)、他の人、近い人、遠い人、友人知人、親戚親族、家族などについてはあれこれ考えてしまいます。

イエスがおっしゃることはもっともだと解ってはいても、でもね……。そんな風に思うのです。

なぜでしょうか。誰しも自分に甘くて、他人には辛いのですが、それはどうしてでしょうか。

わたしが思うに、自分のことになると理由がよく解るからです。というより、自分に都合のいい言い訳をたくさん用意することができると思います。「時間がなかった」「こうした方がいいと思った」「たいしたことではないし」「誰もがやっている」などなど。  言い訳を考えても、言っても、実は誰も聞いてくれないので、せめて自分が自分のことを「ふんふん」と聞くことになります。そして、「なんでわたしのことをわかってくれないんだろう」とまた、自分をよいしょ、と棚に上げてしまうわけです。

 だから他の人の「言い訳」を考えてみてはどうでしょうか。「この人が、わたしの言うとおり、思う通りにしないのは何故だ」「なぜこの人はできることをしようとしないのだ」などなど、考えられることはいろいろあります。でも、ほんとは、その答えなど、すぐにわかるのです。他の人は、「わたし」ではないということ。「わたし」以外に「わたし」は存在しません。

 平和とか、思いやりとか、愛、いつくしみなどを考える時に必要なことは、「わたし」と「わたし以外」が決定的に違うものだ、と理解することなのではないでしょうか。 違いを理解したいと思うことこそ、神様の創造された「人間」一人ひとりを大切にすることになるのではないでしょうか。

一人ひとりが違う存在で、それぞれが神様に本当に愛されている存在であること、わたしたちはこのことをまだまだ理解できていないと思うのです。


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3月6日(水) 灰の水曜日
マタイ6章1―6節16-18節


四旬節の始まりの「灰の式」は、わたしたちにとってとても印象深いものであると思います。

額(ひたい)に灰を受け、「回心して福音を信じなさい」と唱えられる時、わたしたちが何を信じ、どこに行かなければならないかを、強く思い起こさせます。

 わたしたちは本来「無」です。土から生まれ、土に帰る存在。神様の恵みなしには生きることはおろか、存在することさえできないのに、それを忘れて、日常生活はどんどん過ぎ去り、何でも出来、何でも自分のものにしてしまうように感じています。自分が「神様」の位置に居座ってしまう危険、これがわたしたちの一番大きな誘惑ではないかと思います。

 ですから、「灰」という現代社会ではあまり見かけることもない(つまり火を焚かなくなった社会ですから)ものによって、わたしたちが本来あるべき姿を考え見つめなおさなければならないのでしょう。四旬節とは、古代のイスラエルの民の回心の記念、イエスに先立つ洗礼者ヨハネの呼びかけ、そして、これから始まる恵みの時を、洗礼志願者と共に歩む決心を新たにする時です。

四旬節中に繰り返される「今は恵みの時、今は救いの日」ということばに心をこめて、「今」を生きる恵みを重ね合わせたいと思います。毎年めぐってくる四旬節ですが、来年も同じとは限りません。この時が二度とない事を感じながら、主の復活に向けて、わたしたちも歩んでまいりましょう。


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3月10日 四旬節第1主日 
ルカ4章1―13節


四旬節の第1主日は、いつものようにイエスが荒れ野で誘惑を受ける話です。今年はルカによる福音が読まれます。イエスの荒れ野での試みは、他の共観福音書(マルコ・マタイ)にもあるところです。3人の福音記者がそれぞれ書き留めていることから、イエスの宣教活動には、大切なところであったことがわかります。

さて、わたしたちはイエスの「試み」がどこか遠い出来事のように感じられはしませんか。それとも、こういったことは、わたしの日常によくあることだ、と言うことができるでしょうか。どちらであっても、イエスに対する悪魔の「試み」は、すべて失敗します。わたしたちがこのような誘惑に合う時、どうでしょうか、悪魔の誘惑に簡単に乗ったりしないでしょうか。

実のところ、誘惑はそこらに転がっているようです。わたしの体験では、うまくいっているとき、自分が大丈夫だと考えてしまう時、そこに落とし穴があって、知らずに転げてしまいます。そして考えるのです、なんでこうなるんだ、と。

なぜかはわかりませんが、神様は失敗を通して学ばせるのがお好みのようです。そんなに意地悪しなくてもいいのに、と思うのですが、だいたい、上手くいかなかった時の方が、ほんとうは恵みがあるのです。ただ、それが解るのはずっと後からなのですが。

上手くいっているとき、人間は神様のことを忘れてしまいますから、きっと、神様は自分のことを忘れさせたくないので、こんなに失敗というか、上手くいかない事ばかりなのかもしれません。そうはいっても、この世の中は成功し、上手に世渡りすることがとても良い事とされています。修道院の中でも、失敗ばかりすることは、マイナスの評価になってしまうのかもしれません。出来るだけ成功し、人にも認めてもらうことができればよいのですが、そうはいってもできないことも多いし、何よりも自分が「拒否」してしまって、上手くいかない時が多いのです。

いろいろやってみようとしたり、誰かからやってみて、と言われたりします。そんな時に限って、一番苦手なことをやらなければならなくなったりして……。これは、一番やりたくないことを行わないでよいという「誘惑」なのではないでしょうか。それなら、少し嫌なことをするほうがいいのかな……。

さて、どうでしょうか、イエスの誘惑に対して、わたしたちの日常生活の誘惑、試み、試練は、いかがでしょうか。

誘惑というと、なんだか「甘い蜜、禁断の果実」のような気がしますし、試みというと「辛い試験」のように思います。さて、今日のわたしたちが遭遇する「試み」は、どんなものなのでしょうか。


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3月17日 四旬節第2主日  
ルカ9章28b-36節  


「イエスは、……祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(28-29節)

イエスの姿が変わる時、それは、イエスが祈っておられるときでした。イエスが高い山で弟子とともに祈っておられた時、その姿が変わったのです。

しかし、一緒にいた弟子たちは、なんだかぼんやりしていて、よく解っていません。わたしたちの姿そのままのような気がします。わたしたちも、肝心な時にぼやっとしていたり、寝ていたり、他のことを考えていたりしています。特に、神様の恵みを感じるべき時に、うっかり、ということもあるようです。弟子も同じだったのでしょうか。

でも、恵みの時に、寝ていたり、ぼうっとしているということは、本当に恵みを受け取る準備ができていない状態なのでしょう。それでも神様は、あきらめもせず、わたしたちに恵みをお与えになります。物質的にも、精神的にも、また、何よりも大切ないのちの恵みを。

今日生きることができるのも、神様のおかげなのですが、わたしたちはその大切な恵みを、うかうかと受け取っています。まるで、ご変容のイエスのそばにいた、眠たがっている弟子たちのように。そこで何が起こっているのかよく解らないまま、焦ったり、うろたえたり、そしてトンチンカンなことを言ったりして、後で恥ずかしくなりますが。

おそらくペトロたちも同じように後で、「なんでこうだったんだ、自分のバカ!!」と言って悔やんだかもしれません。そしてイエスは、そんな彼らに、ため息をついたかも。

さて、わたしは肝心なところで目を覚ましているのでしょうか。ペトロを笑うことはできません。後で悔やんでばかりですから。イエスの「ここぞ」という姿をせめてきちんと見て覚えておかなくては、と思います。イエスの「変容」は、わたしたちに恵みを受け取るための心を準備するよう、今日呼びかけているようです。


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3月24日 四旬節第3主日
ルカ13章1―9節  


「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」(8-9節)

「このままにしておいてください」とわたしたちは言えるでしょうか。

現代社会の中ではすぐに結果を求められます。準備したことの結果は、今日、明日中に受け取りたいのです。気長に待つということは、なかなか耐えられそうにありません。福音宣教の活動でもそうでしょう。教会に来た人に熱心にアプローチするのは良い事です。でも、多くの人に呼び掛けても、「関心のないこと(人)には、あまり熱心に勧めなくても」というスタンスが多くはありませんか。本当に大切なことだからこそ、熱心さ(強引さとも取れることですが)をもって呼びかけることが、日本の教会にどうも欠けているように思います。もちろん、それがよい場合も多いでしょう。でもそれが「効率だけを求める日本社会」に影響されているのなら(つまり無駄は省きましょうという考え)、教会も結果主義・効率主義に陥っているのではないでしょうか。

忍耐を求められることはたくさんあります。子供を育てること、植物を育てること、山を手入れしたり、土地を整備したりすることなど。また、福祉の現場、福音宣教、平和と正義を求めることなどもそうでしょう。多くのことに、多くの人が忍耐と継続性をもって働いておられるでしょう。結果はすぐには出ないのです。10年後でもまだ早い早い、50年100年後を考えて、活動し続けている人々がおられます。彼らは大声で叫んだりしません。派手ではなく、沈黙のうちに、でも確かにそこに居て、働き続けていらっしゃるのです。

四旬節は春を待つとき、主の復活を待ち望んでもう一度自分の生き方を見つめなおす時。そんな時にこそ、この園丁のように、神様に忍耐していただき、自分自身に忍耐し、結果がすぐに出なくても、自分を、そして隣の人を受け入れて、受け入れてもらってゆくことができますように。


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3月31日 四旬節第4主日
ルカ15章1―3、11-32節  


「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)  有名な「放蕩息子」のたとえ話ですが、この話は「放蕩息子」が主人公ではなく、「憐れみ深い父親」が主人公であるとも言われています。

この話も先週と同じように、忍耐と憐れみの物語です。精一杯愛そうとしているのは父親です。その二人の息子は、一人は遠い異国に行きました。そしてもう一人の息子は一緒に住んでいたにもかかわらず、父親の心をちっとも理解していなかったのです。だから二人の息子と父親は、実はどちらとも遠く離れていました。

現代であれば、自己責任論が言われますので、こういった息子を育てた父親が悪い、ということにもなりかねません。でもここでは、父親の欠点をあげつらうことはなく、息子たちの不従順さだけが強調されます。なぜなら、「父親」は何よりも神ご自身だからです。

わたしたちは人間に対しては「そんな甘やかしては良くない」とか、「もっと厳しく教育しなければ」とか、言いますが、神様に「わたしにはもっと厳しくしてください」などと誰も頼みません。かえって、「大目に見てください」「ごめんなさい、次はしません」「もうやらないから、ゆるしてください」とか言うのです。だからこそ、この物語の父親に優しさと甘さに、「よかった」と言いたくなるのではないでしょうか。

だから、この話の中でお兄さんの立場に同意して、その通りだと思うことは、わたしたちにはできないのです。わたしたちは、いつも「ゆるされる」者だからです。このお兄さんも、本当は「ゆるされる立場」にあるのですが、自分ではそれに気が付いていません。だから、放蕩してきた息子よりも、もっとお父さんから離れているのではないでしょうか。御父である神様は、帰ってきた息子を「生き返った」と言って迎えます。父親にとっていのちが戻った息子は、何よりもいとおしいものです。わたしたちも御父にこう言って迎え入れてもらっていることに気が付く恵みをいただきたいと思います。


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