主日の典礼
2018年―2019年 C年

2018年12月2日 待降節第一主日 
ルカ21章25~28節、34~36節

今年はC年の典礼です。おもに読まれるのは「ルカによる福音」で、ルカはルカの特徴があり、共観福音書として、マルコやマタイと共通の部分もあります。これからの一年、皆様が福音を身近に感じられれば、と思いながら、主日の福音を分かち合ってまいりましょう。

さて、きょうは待降節第一主日です。ルカ福音書の二十一章は、最後の審判の様子が語られています。イエスの口を通して語られるその有様は、わたしたちにとっては少し縁遠いような気がします。なぜなら、今、現代社会において、「世の終り」「最後の審判」と言っても少しもピンと来ないからです。(これは11月18日の「主日の福音」でも言っていますが)

また、教会はいつの間にか、天国や地獄、最後の審判のことなどをあまり語らないようになっているように感じる方もおられるのではないでしょうか。実際、あまりこのことについて聞きません。

 天国や地獄を「脅しの手段」として使ってきた、以前の教えはどうでしょうか。「地獄に行かないために罪を犯さないように努力する」、方向は間違っていないのですが、どうも信じること、神様のもとにいる喜びを感じられないような気がします。

 教皇様もおっしゃっていることですが、守りに入って汲々としている教会、扉を閉じて純粋であろうとする教会は、自分自身の中にとどまって、病気になってしまうような気がします。それより、事故や怪我を負う事あるとしても、扉を開き外に出てゆく教会、人々のもとに駆けつける教会でなければならないのではないでしょうか。

 そんな教会を目指そうとするとき、「これは駄目」「あれはいけない」「こんなことをすると地獄に行く」などなどと、一生懸命に規則だけを守り続けることに目を向けていてもよいのでしょうか。

「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(二十八節)  さまざまな災害や天変地異、恐ろしいこと、迫害などが起こっても、それこそが「解放の時」が近いしるしである、とイエスは語られます。それなら、閉じこもり、自分の正しさだけを考えて、小さく身を守っているだけでは、イエスの「時」を迎えることができないのではないでしょうか。

「心が鈍くならないように注意しなさい」(三十四節)「いつも目を覚まして祈りなさい」(三十六節)と、語られる注意は、常に身を起こして、目を開けて、敏感になってその「時」を迎えることができるようにと言うものです。

わたしたちは、実はそんなに緊張に耐えられるものではありません。ですから、年がら年中緊張して、イエスを待ち続けることはたぶんできないのです。けれど、必要なこと、たいせつなことは、今ここで、何を一番にするか、と言うことです。自分だけの救いを考えて、小さく身をかがめてやり過ごすのか、多くの人といっしょに、イエスを心から迎えるために、転んだり、つまづいたりしながらイエスを探してゆくのか。それぞれが一生懸命考えなければならない課題だと思います。


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12月9日 待降節第二主日
ルカ3章1~6節


待降節とは、クリスマス、イエスの誕生を待つ時期でもありますが、イエスの再臨を待つ時期でもあります。イエスは復活し、再びこの世界に来られます。そのとき、天と地は新たにされ、神の支配が完成されるのです。死も苦しみも、嘆きもなくなるのだと言われます。わたしたちは、その世界を待ち望んでいるのでしょうか。

先週にも述べたように、現在のこの暮らしが平穏であれば良い、とは思っていないでしょうか。けれど、どんなに平穏で、幸せな暮らしも、必ず変化しますし、苦しくつらい出来事も変わります。わたしたちは時間の中に生きている限り、「永遠」ではありえないのです。

 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(三章四~六節)

 洗礼者ヨハネの叫ぶ声は、わたしたちを目覚めさせようとするものですが、わたしたちは、これに無頓着で、関心も持たず、あっさりと聞き逃してはいないでしょうか。洗礼者ヨハネの声は、彼自身の命と生活のすべてを賭けた叫びだったはずです。だからこそ、多くの人が彼のもとに来て、その勧めに従おうとし、もうすぐ来られる「救い主」を待つために、身を整えようとしたのです。

確かに、その声に無関心な人もいました。彼らは、「また変わった人が出てきたな」と言う思いで、うわさを聞いていたのかもしれません。

一方、ヨハネのことばを聞いて心を整えようとした人たちも、勘違いしていたかもしれません。人間が心を整えれば、きちんと神を礼拝すれば、「救い主」はすぐにも来てくださる、と。

そうではないのです。人間の惨めな状態を父である神は、あわれみ、心を痛め、黙っていることができないので、イエスを遣わされたのです。だから、主の道を整えるのは、人間ではなく、「神のことば」、イエス自身なのです。イエスを通らなければ救いはありえない、と言われるのだと思います。人間の弱い心と力では到底なしえないことを、御父はイエスを通して、幼子を通して実現なさったと信じるのです。


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12月16日 待降節第三主日 
ルカ3章10~17節


「今日の福音は、「マルコ福音書の小黙示録」とも呼ばれる箇所の一部です。十三章全体で、世の終りのことをイエスがお話になるというところです。

「そのことはいつ起こるのですか」(十三章四節)という弟子たちの問いかけに答えたイエスは、世の終りのことについて、いろいろと話されます。とはいえ、わたしたちにはこれらのことが、ただのお話のように感じられるのではないでしょうか。

洗礼者ヨハネの具体的な教えが述べられるきょうの福音は、ヨハネがイエスの先駆けであることを良く現しているところです。

群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。
食べ物を持っている者も同じようにせよ」(十~十一節)

イエスもまた、このように日常的な行いこそが、神の国を受け継ぐもの、救いをもたらすものであることを言われています。持っている物を売り払ってイエスに従うこと、貧しい捧げ物でも精一杯すること、自分の罪を痛み苦しみつつ、神の前に素直であること。人々が行うことは、スーパーマンのような突飛な行為ではなく、平凡な自分ができることですが、一方で実践しなくても、非難されることはないことなのかもしれません。とはいえ、このような実践こそが、神の国を実現することでなのでしょう。

ヨハネもまた自分の生き方をしっかりと律していました。厳しい生活だったことでしょう。イエスがそうであったように、人びとの喝采を受けることも、大げさなパフォーマンスを行うこともなく、日常的な実践によって神のみ旨を捜し求めていったのでしょう。

そして、自分が「何者であるか」をはっきりと知っているからこそ、神の望みをはっきりと告げ知らせることができたのです。ヨハネもまた人間ですから、ほめられたり、奉られたりすると、傲慢になったり、有頂天になったかもしれません。けれど自分が何であるかを知っていたからこそ、次に来られる方の偉大さをはっきりと認識できたのです。

わたしたちも、ヨハネに倣いたいと思います。「自分が何であるか」をとことん知ることこそ、神に向かう最も近い道なのではないでしょうか。ヨハネが「わたしよりも優れた方が来られる」と言ったことは、ただ謙遜だけで言ったことではないでしょう。だれよりも「救い主」を待ち望んでいたのが彼であったから、イエスのことをこんなにまで待ち続け、そのために力を惜しまなかったのです。

ヨハネの厳しさと謙遜、そして待ち続ける心を、わたしも持ちたいと思います。


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12月23日 待降節第四主日  
ルカ1章30~45節  


聖母のエリザベト訪問の記事が、今日読まれます。マリア(まだ若く、貧しく、頼れる男の親戚もなかった女性)がエリザベト(不妊と言われ、長い間その苦しみに耐えてきた、もう年配の女性)のもとに出かけ、そこで女性二人が出会うのですが、それは普通の出来事ではなかったのです。

彼女たちの出会いは、イエスとヨハネの出会いでもありました。考えてみれば、妊娠して、たいへんな状態のマリアが、長い旅行をするなんて、無茶だなあと思いますが、イエスがいっしょだったからこそ、マリアはエリザベトにその喜びを運ばなくてはならないと思ったのです。

イエスが一緒のとき、何でもできるということを体験なさったことはありませんか。  わたしたち本位ではなく、共にいてくださるイエスこそが中心になるとき、本当に「何とか」なったことはありませんか。

難しいです。信頼し続けることの難しさ、本当に困ったときの苦しさや悩み、そのときにイエスに必死で頼るのですが、ちっとも効き目がないと思えてしまいます。ほんとに駄目だなあ、わたしは信仰がたりないな、と思います。へこんで、泣いて、いやになって、底の底まで落ちてしまうかもしれません。それでも、イエスがそばにいてくださることを信じ続けられたらと思います。到底できないような、長い旅をマリアがしたように、わたしたちの旅路をマリアのようにイエスを抱きながら、続けて行くことができるでしょうか。

そして、その旅の最後に、エリザベトのように「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(四十五節)と、叫ぶことができるよう、祈り、信じ続けたいと思うのです。


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12月25日 主の降誕(日中)
ヨハネ1章1~18節  


初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」有名なヨハネ福音書の書き出しです。「言(ことば)」と訳されたのはギリシア語の「ロゴス」ですが、ここで福音記者は難しい哲学的なことを述べているのではないのだと思います。何よりも、きょう、降誕祭の日中に読まれるのですから、イエスの誕生、神が人となり、わたしたちのうちに住まわれた、それゆえにこそ、この世界は、そして人間は、神から深い恵みを受け、救われる(神のいのちに完全にあずかる)と言う神秘と恵みを高らかに歌うものなのではないでしょうか。

クリスマスは、受肉の神秘を、わたしたちとともにおられる神をさらに深く感じることができる時ではないでしょうか。わたしたちのこの弱い人間、心もからだも弱くてもろい人間が、イエスという「人」によって、「神のいのち」にはいることができるようになったのですから。

それは、偉大なわざであると同時に、ひっそりと、目にはっきりとは見えない、地味な恵みでもありました。たった一人の子供の誕生が、世界を変えることができる偉大さをもっているとは、だれが考えたでしょうか。

そうです。
イエスの誕生によって、世界が変わるのです。すべての人間が、イエスと同じ尊厳をもって生まれたのだと知らされるのです。

だからこそ、すべての子供たちのために、特に望まれずに生まれる子供たち、戦争や難民などの困難にある子供たち、貧しく、教育の機会もなく、働き続ける子供たち、大人の搾取の犠牲となっている子供たち、闇に葬られた子供たちのために祈りましょう。クリスマスの暖かさも、家庭という最初の居場所もないような子供たち、死に瀕している子供たちのために、今も、いつもイエスは苦しまれているのではないでしょうか。

本当に、クリスマスの大切さを人々に知らせるために、温かな心を互いに交換できますように。


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12月30日 聖家族の主日
ルカ2章41~52節  


イエスが十二歳の時の出来事を、ルカによる福音書だけが記しています。十二歳と言うと、イスラエルの民の成人式で、もう大人扱いをされる歳です。イエスもナザレの田舎から、年に一度の大きなお祭りのために、エルサレムに上りました。大勢の親戚や知人、村人たちが固まって旅をしたことでしょう。現代の日本では、十二歳と言うとまだ小学生から中学生くらいで、まだまだ両親の保護の下にある年頃です。イエスは、「大人」扱いをされたのでしょうか。いなくなったイエスを、母マリアは「子羊」を探すように、探したのでした。

とはいえ、親子間のギャップは大きかったようです。マリアのことば「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(四十八節)に対してイエスは、冷たいとも思えることばで返事をするのですから。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(四十九節)

イエスは「御父の家」にいるのですから心配することは何もないのだ、と言うことでしょうか。こんな「家族間の分かり合えない関係」が「聖家族の主日」に読まれるのです。

つまり、聖家族といっても、やはりいろいろな感情の行き違いやら、無理解やら、理不尽な行動があり、その家庭も引っ掻き回されることがあったのだと思います。聖家族だから、ヨセフ様、マリア様、イエス様の三人だったら、「絶対けんかもしないし、仲いいよね」、とはならないと思います。人間同士ですから、誤解や行き違いもあったでしょう。その上、イエスの見つめるところは、人間には理解しがたいところがあったはずですから、マリアやヨセフが理解できないのは、イエスには分かっていたことでしょう。

それでも、イエスは「両親に仕えてお暮らしになった」(五十一節)と記されています。イエスは、「人間」として目立たない生活を三十年間も行われるのでした。

「聖家族の主日」は、クリスマスに最も近い日曜日であり、年末です。日本ではお正月という家族の交わりの行事の時であり、海外ではクリスマスがその役目を担っているようです。家族といってもさまざまな形がありますし、血の繋がりがない家族もあります。今日の福音で聖家族が遭遇したハプニングとも言うべき出来事、その後、彼らがどのように生活したかは、定かには分かりません。ただ、言えることは、イエスがその家族で生活し、信仰を育み、御父のみ旨のみを生きる生き方を養っておられたこと、そして、わたしたちのために生きていのちを捧げた、ということです。イエスの行き方は人間として、その幼少期から形作られたことでしょう。そんなイエスを身近に感じ、「共におられる神」であることをさらによく知ってゆきたいと思います。


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