主日の典礼 二〇一八年十月

十月七日 年間第二十七主日  
(マルコ十章二―十六節)


ファリサイ派の人々の質問は、律法を守ることについての条件付けのように思います。「この決まりには、ここまでなら許される」「これなら、引っかからないからセーフ」など、ついついわたしも決まりの隙間をうかがってしまうことがあります。
けれど、決まりはそんな隙間を縫うようにして守るものではないことは、よくお分かりのことと思います。なぜなら、決まりというもの、規則というものは、何のためにあるのかといえば、守るためにあるのではなく、何のために守るのかが問われるものだからだと思います。

 離婚について問われることも、その点がとても大切なことだと思われます。なぜなら、離婚することによって困るのは、弱い立場の人、多くは女性だからです。その当時結婚していない、ということは、家族のつながり、一族のつながりから外れることです。つまり女性は結婚していないと庇護されることがなくなるということです。庇護されずに生きるためには、職業が必要ですが、当時の女性の職業などあるはずもなく、結局はいろいろな人の庇護を受けなければならに事になるのでしょう。

そのため、離婚するときは、しっかりと「離縁状」をもらっておかないと、次に結婚することもできないので、このような措置が考えられたのだと思います。  ところが、「離婚はダメと言われているが、離縁状を渡したらオーケーだ」という風に話がすり替えられてしまったのでした。それは決して「人は父母を離れて…二人は一体となる」という神様の計らいを考えているのではないことになるのでしょう。

 もちろん現代において、多くの要因が重なり、教会で婚姻の秘跡を受けたとしても、結婚生活を続けていくのが難しくなることもあるのですが、イエスが考えているのは、わたしたちは、本来愛し合うように、支え合うように作られている、だからこそ、たがいに奉仕し合うことをやめてはいけない、ということではないでしょうか。

 「支え合せ」「仕え合せ」という言葉は、「しあわせ」という言葉に似ていると思いませんか。

 幸せという言葉が、一人きりでは決して呟けないいうこと、一人で「しあわせ」などとは言えないことを、わたしたちはもっと深く考えなければならいのだと思います。「一人でいる幸せ」というものがあるのは、多くの人に囲まれ、多くに人に支えていただいているからこそ、言えるのではないでしょうか。


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十月十四日 年間第二十八主日 
マルコ十章十七―三十節


イエスの言動は多くの人の心を動かすものだったでしょう。ある人は病をいやされ、ある人は一緒に行こうと誘われ、ある人は、全ての物を捨てるようにと言われる。そして、そのあとにつづくのは、イエスと出会って完全に変えられた自分自身と向き合いつつ、それからの人生を歩んでゆくという地道な作業でした。

 わたしたちも、イエスを出会い、イエスに変えられながら、黙々と人生を歩んでいかなければなりません。イエスがそばにいることを忘れそうになることもあり、また、イエスとは反対の道に魅力を感じたり、自分の歩むこの道が、実は間違いなのではないかと考えたり。さまざまなことが起こるでしょうし、今も起こっているのだと思います。

さて、今日の福音は、イエスに向かって、「道」を尋ねる真剣な人が出てきます。彼は本当に「永遠の命」を受けつぎたいと思っていたのでしょう。それがイエスへの問いかけになりました。

それなりに真剣だったとは思いますが、割と単純だったかとも思います。なぜなら、イエスに向かって問いかけて、簡単に答えや確信、確証が得られると思っていたようだからです。そんなに大切な問題に簡単に答えが出ると思っていたのでしょうか。それとも単に自分のやってきたことに対して「大丈夫」と言ってもらいたかったのでしょうか。

彼の真意は、イエスの答えを聞いたときにわかるような気がします。「あなたに欠けているものが一つある」と言われた言葉に、「気を落とし、悲しみながら立ち去った」彼は、そんな答えを望んでいなかったのでしょう。ショックが大きくて、イエスのまなざしにも気が付かなかったのかもしれません。
「今までやってきたことで、十分すぎると思っていたのに、これ以上どうするんだ」という気持ちでいっぱいになっていたのかもしれません。

イエスはこのように、わたしたちの生活をひっくり返し、かき回してしまうことばを発します。わたしは、それこそが「神の国の福音」ではないかと思います。

イエスはわたしたちがこれでいい、これで大丈夫、と思っている日常を引っ掻き回されると思います。時には「そんなことしちゃダメ」と言いたくなるようなことでしょう。でも、そこに「福音(よい知らせ)」があるのです。イエスが、天の御父がわたしたちの決まりきった小さな「幸福」を、大きな鉈でぶち切るようにして新しい本物の「福音」を知らせてくださる。その時を、見損なうことのないようにしたいし、また、今日の福音の人のように、悲しんだりしたくないな、とも思います。


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十月二十一日 年間二十九主日 
マルコ十章三十五―四十五節


「わたしは、仕えられるためではなく、仕えるために来た」という典礼聖歌を思い出します。そして、前にも書いたことがあると思いますが、「誰が一番偉いのか」という問いかけには、宮澤賢治の「どんぐりと山猫」という童話を思いだしてしまいます。

「一番上になりたいならすべての人の僕になれ」ということばには、ちょっと躊躇します。なぜなら、みんなの下僕になることは、一番偉いことなんだから「一番謙遜で偉いわたしが仕えてやるんだから」というような、矛盾した状況になってしまわないとも限りません。「一番になるために仕える」というその心がけがある限り、うまくいかないのではないかと思うのですが、もちろん、イエスはそこにポイントを置いているのではありません。「仕える」ことの難しさのほうを話しておられると思います。

わたしたちは、人に仕えることがどれくらい下手なのか、ことさら感じてしまいます。隣人の心を汲んで、一生懸命やったことなのに、受け入れてもらえないから腹を立ててしまう。自分の思いを一生懸命に話し、表現しても、相手の思うところに届かない。いろいろやっても分かってもらえない。友人、恋人、親、兄弟姉妹、夫、妻、仕事上の関係、趣味の関係、隣近所。様々な人間関係の中で、わたしたちは人をわかろうと、そしてわかってもらおうとあがいているような気がします。

イエスが「一番上になりたいなら」と言われるのことは、偉くなること、尊敬されること、充実すること、自己充足することではなく、「わたしと一緒にいたいなら」ということを意味しているのではないかと思うのです。それは、つまりは「上」、十字架の上に行くことでもあるのですが、「イエスを一緒」という条件だけが、わたしたちを導くのではないでしょうか。イエスが一緒にいるならば、分かってもらおうがもらえまいが、どうでもいいことになる、かもしれません。でも、うまくいかないのですが。


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十月二十八日 年間第三十主日 
マルコ十章四十六―五十二節


自分の希望、望み、思いを必死で訴えることは、簡単なようで難しいことです。わたしたちはすぐ、自分や他人の思惑やら、世間体やら、なんやらを考えてしまうからです。

必死になって言いつのることで、すぐ思い出されるのは、このところはあまり見かけませんが、子供が「あれがほしい」と言って泣きわめく姿です。子供のように恥も外聞もなくわめけたら、手に入るものもあるかもしれませんが、それで失うこともありますので、大人は、そこまで必死になれないということでしょう。その代わり、いろいろな策をめぐらして、自分の欲しいものを手に入れようとすることもあります。

さて、今日の福音に出てくる目が見えない人は必至で叫びます。それよりもまず特筆すべきは、マルコが彼の名前を書いているということです。「バルティマイ」という名前がそれですが、奇跡によって癒される人で名前が出ているのは本当に珍しい(もしかしたらここだけ?)ことです。彼が「エリコで癒された盲人」としてマルコのいる(マルコ福音書の書かれた)共同体でも有名であったのかもしれません。

何か良いことをしたから癒されるのではないことを、聖書は書いています。多くの場合、癒されるのは「必死さ」が必要とされています。

屋根を破って病人を降ろした人々の必死さ、人ごみの中で触れることだけを望んだ必死さ、そしてこの盲人のように、人々がとめてもさらに叫び続ける必死さ。

そのような必死さの背景になる、死ぬかもしれない、ここで人生が終わるかもしれない、ここ以外では生きてゆけない、というような思いをわたしたちをほとんど忘れているのではないでしょうか。わたし自身もそのような思いを忘れたり、どこかに置きっぱなしにしているような気がします。

子供や若者がまぶしいのは、そんな「必死さ」に生きていることがよくわかるからなのでしょう。太陽を見つめることができないように、彼らから目をそむけてしまうわたしは、きっとイエスの癒しからも目をそむけて、「別に変わる必要はない」と思っている者なのでしょう。


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