主日の典礼 2021年

2月7日 年間第5主日 
マルコ1章29~39節

イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」38節

マルコによる福音書では、イエスの活動が書かれています。カファルナウムの会堂での癒しに続いて、安息日が終わったため、多くの人がイエスの折られるところに病人をつれてきました。(安息日には病人を運ぶことも禁じられていたのです)

 そのような華々しい活動のあと、イエスは何をしておられたのかと言えば、人里離れたところで祈っておられました。イエスを探しに来た弟子たちは、こんなところで何を、と思ったかもしれません。けれどイエスは祈りの後、「ほかの町や村に行こう」と彼らを促します。

本当のところ、弟子たちは、あまりあちこち行きたくなかったのではないでしょうか。ペトロたちはこのカファルナウムの出身で、この場所に居れば、知り合いもいるし、活動もしやすいように感じたのではないかと思います。けれど、イエスは、あえて彼らの考えをくつがえすような行動に出られ、あちこちの村や町に出かけることにしました。イエスの宣教活動は、簡単なものではなかったはずです。交通手段もなく、徒歩で旅行をしなければならないとか、食べるものもなく、その夜に寝る場所もないというような生活だったでしょう。それでもイエスは弟子たちをつれて、あちこちの村をめぐり、病人をいやし、神の国の福音を告げられました。

 弟子たちの思惑とは違い、様々なところをめぐり、苦労を重ねて旅を続けるのがイエスの宣教の在り方でした。それは神の国を告げること、神様の愛を伝えることを最優先にした在り方だったでしょう。

わたしたちはキリスト者として活動できているのでしょうか。コロナ禍によって、教会の活動は本当に狭められ、思うようなことができなかい日々が続いています。ミサに通うことも出来ないで、オンラインで司教様や神父様のミサの様子を見ることになってしまいました。教皇様がクリスマスの夜半のミサをささげていらっしゃるのも、パソコンから見ることができますが、今までとは全く違って、本当に少ない人たちとともに祈っておられます。このように教会の生活も様々な変更を余儀なくされているのです。

だから、わたしたちの宣教は、福音宣教はなくなってしまったのでしょうか。しなくてもよいのでしょうか。そんなことはありません。何らかの方法で、この苦しい日々、闇の日々、希望の見えない日々に向かって、今まで以上に神のことばを告げ知らせなければならないのではないでしょうか。動画やメール、ウェッブサイトでの活動もできるかもしれません。けれど多くの人がそんな才能もないし、環境もないし、できないよ、と思っているかもしれません。また、出かけることも躊躇するこの頃ですから、だれかのところを訪ねることもままならないかもしれません。だからこそ、今一度原点に立ち戻り、何ができるのか、何がわたしとともにあって、みことばを宣べ伝えるのか、神様とともに努力を続けたいと思います。


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2月14日 年間第6主日
マルコ1章40~45節


イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。41~42節

福音宣教は、何か大きなことをすることではありません。みことばを宣べ伝えるためには、まず自分がみことばに生かされていることを深く知ることが大切です。何であれ、人と人との交わりの時、わたしたちを生かしているのはみことばそのもの、イエス自身だからです。

新約聖書で「深く憐む」とあるとき、これはギリシア語で「はらわたがちぎれるほどの思い」という意味があると聞きました。心が痛み、体も痛む思い。それは、ゆえなく苦しい立場に落とされた人々と自分自身を一体化した時の気持ちのように思います。もちろんわたしたちは、苦しんでいる人の痛みや苦しみを味わうことはできません。けれど、何かしら寄り添うことも出来ますし、自分が痛み苦しんだことを思い出し、一緒に忍耐することができるでしょう。そして苦しみや痛みを共にできない歯がゆさも、痛みとなるのです。イエスはこのような痛みを感じておられていたのではないでしょうか。

 イエスが奇跡をおこない、病人をいやされたのは、御父のいつくしみを直接体験させるためだったのですが、いやされた人の多くは、自分が治ったことだけに目をとめ、神のいつくしみのわざを心にとめることがなかったようでした。だからこそ、自分が奇跡を受けたことを人に言いふらし、それを受けるにふさわしいとか、ふさわしくないとかということばかり気にしていたように思います。本当の神様のいつくしみは、わたしたちにも働き、日々生きていること自体が「奇跡」の日々であることを意識できるでしょうか。

 そのことを知った人は、自分が「生かされている奇跡」に感謝しながら、その素晴らしさを宣べ伝えずにはいられないのだと思います。イエスの心を引き裂くような思いである「深いあわれみ」をわたしたちも意識してゆくことによって、日々の奇跡を体験できる恵みを願いたいと思います。


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2月17日 灰の水曜日 
マタイ6章1~6、16~18節


あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。6節

  今日の灰の水曜日から四旬節が始まります。昨年は、四旬節から新型コロナウィルスの感染拡大、緊急事態宣言が出され、復活祭もほとんどの教会では、非公開でお祝いされたと思います。今年はどうなのでしょうか。年明け早々、感染者の数は多くなって、心配な状況が続いています。2月はどうなのでしょうか。

今日のみ言葉では、「祈り、節制、愛のわざ」という四旬節に行うべき行動をのべていますが、皆様はどのように四旬節を過ごされますか。わたしたちの修道院では、通常よりもみことばに親しみ、分かち合いを行い、自分を見直す機会が増えます。また、自分なりのやり方ではありますが、様々な節制を行うことによって、困っている方々の助けとなれるよう、お捧げを工夫します。それは「自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられる」神に祈りをささげることでもあります。

困難な時期であるからこそ、その困難に打ちひしがれるのではなく、見えないところにおられる御父に助けを願い、希望をかけ、決してあきらめないよう継続してゆきたいと思っています。多くの人に、これで終わりではない、ということを知らせたいと思います。神様がわたしたちのために恵みを与え続けてくださっていることを信じ、どんなときにも、前進できるよう助けを願います。それは困難な時期であるからこそ、神様のいつくしみをより深く体験できると信じているからです。

四旬節とは、回心と償いへと招かれる期間ですが、それと同時にわたしたちに注がれる神様の愛といつくしみを深く感じるときでもあります。十字架という恐ろしい死に向かうことをイエスが引き受けられ、わたしたちの弱さと苦しみを担って、すすんで受難へと向かわれるイエスの姿を思い起こす時なのです。神の愛といつくしみは、十字架につけられた無力なイエスの姿の中にあります。彼はその苦しみを通して、死が決して終わりではないこと、神が常にわたしたちとともにおられることをあかししてくださったのです。四旬節を通して、主の復活の喜び、壊されることのない希望と喜びへと向かって歩みましょう。


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2月21日 四旬節第1主日  
マルコ1章12~15節  


“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。12節

四旬節の第一主日は、イエスの荒れ野での誘惑の場面ですが、マルコ福音書はその詳しいことを記述していません。わたしたちは、マタイ福音書とルカ福音書で、その誘惑の様子を知ることができますが、マルコはそんな詳しいことはまるで無視をしているかのようです。

マルコ福音書の視点は、荒れ野に送り出されたイエスのことにあります。

 洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたイエスは、そのまま「荒れ野」へと送り出されます。そしてそこで「サタンから誘惑を受けられた」とあります。なぜ、四旬節の最初に、イエスの誘惑のシーンが読まれるのでしょうか。その理由の一つとして、イエスすら誘惑を受け、克己しなければならないのだから、わたしたちはなおさらだ、ということがあるでしょう。様々な誘惑にさらされているわたしたちです。どんなに頑張ったとしても、それに完全に打ち勝つことができるでしょうか。四十日四十夜断食をすることができるでしょうか。イエスのように、たった一人で荒れ野に生きることができるでしょうか。

そのどれも出来ないとしても、イエスとともにあることを意識するのです。イエスとともに荒れ野にいるのがわたしたちです。この世界が豊かで、何もかもあるように見えても、実は荒れ野のように「野獣が吠えたける場所」であるのですから。

もちろん、この世界は、素晴らしいものですが、わたしたちの地球がわたしたちのエゴのために、浸食され、壊されようとしていることも確かなのです。自然を思うままに搾取している人間は、その自然からの報復を受けることにまだ完全に気が付いていません。あらゆる自然と環境が悲鳴を上げ、そのために苦しむ多くの人がいることにも気が付かないのがわたしたちなのです。

サタンの誘惑とは意外と近くにあります。「まだ大丈夫だ」「時間はあるから」「ちょっとくらいなら平気だ」「これくらいたいしたことないよ」などなど。

荒れ野に行かなくても、サタンがそばに居なくても、わたしたちはもっと気を付ける必要があるのです。



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2月28日 四旬節第2主日   
マルコ9章2~10節  


すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」7節

四旬節第二主日の福音は「主の変容」の場面です。3つの共観福音書のどれにも記載されている記事なので、どの福音記者も大切なこととして記憶していたことなのでしょう。八月六日には「主の変容の祝日」がありますが、四旬節中に読まれるこの箇所は、わたしたちに何を語っているのでしょうか。

イエスは受難と死に向かうとき、どんな心境だったのでしょうか。そのあとに復活が待っているとわかっていたとしても、肉体的な苦痛はもちろん、親しい弟子たちの裏切り、群衆の手のひら返しの仕打ち、民の指導者たちの醜い様子など、心理的にも追い詰められたイエスの苦悩は、いかほどだったことでしょう。

  イエスはスーパーマンではありませんから、その苦しみを人間の肉体と精神で耐えてゆくことしかできません。何の苦しみもないのでしたら、「贖いのわざ」は成就しなかったことでしょう。イエスの復活はその苦しみを御父にささげるという、大きな犠牲の後、御父がイエスに与えられていのちのたまものでした。

イエスが「御子」である神として、どんなに御父の心をわかっていたとしても、肉体的精神的な苦痛は減るどころか、さらに膨らんでいったことでしょう。わたしたちの弱さによって、御父がどんなに悲しまれているかをご存じなのはイエスだからです。イエスと御父は、人間の深い罪によって、さらに苦しみ、痛み、泣かれているのです。

そんな人間的な弱さを持っているのがわたしたちですが、御父もイエスもわたしたちを愛し続けることをやめることはなかったのです。だからこそ、受難の前に「主の変容」という復活の先取りのような出来事をお示しになりました。

 わたしたちの弱さをよくご存じの主は、イエスがどんな栄光を受けるかを前もって示してくださいました。わたしたちがこの世界の困難をきちんと受け止めることができるよう、逃げることを選ぶのではなく、傷つき倒れそうになっても、イエスとともに歩んでゆけるよう、その復活の姿を示してくださったのです。

わたしたちは弱い者です。すぐにふらふらと流され、イエスの心、御父の心を知っていながら、自分のエゴに負けてしまいます。四旬節のこの日曜日、イエスの変容の箇所を読む私たちは、自分の弱さを十分知るとともに、それでも、どんなときにも神様が見捨てることはないと、信じ続けるように招かれているのではないでしょうか。



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1月31日 年間第4主日   
マルコ1章21~28  


イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。21~22節

イエスの権威とは何でしょうか。イエス以外の律法学者たちも、権威をもって教えていました。しかしその権威は、「律法」を正しく解釈し、神の掟に従っているという自負からくる権威だったように思います。イエスは律法を教えるのではなく、律法そのものを生き、御父の教えを体現しておられるのです。そこがイエスの権威のよりどころではないでしょうか。イエスは外から権威を与えられたのではなく、権威ある方そのものなのです。

世の中の権威をもつ人々は、その権威が自分に「与えられた」ことを忘れてしまうことが多いようです。政治家や会社のトップが、自分に与えられた権威を、自分勝手に乱用してしまい、愚かな落とし穴に落ちてしまうことはままあることです。本当の知恵ある人は、自分に付与されたものと自分自身をきちんと見分けることができるのです。イエスは、ご自分がどのような権威をもち、どんな使命を果たさなければならないかをよくご存じだったのです。

人々が驚愕することは、その内容もさることながら、イエスが真に力をもって「赦し」と「癒し」を与えられたからです。イエスは多くの教えと癒しによってわたしたちに直接働きかける神の力を表されています。みことばと力によってイエスがこの世界に介入されることは、すなわち御父の愛のみこころが実現するときなのです。わたしたちも、イエスのことばを味わうとき、御父のいつくしみの愛に触れ、自らを開いてゆくことができますように。


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