主日の典礼 2020年

1月1日 神の母 
ルカ2章16~21節 

 マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。(16~18節)

 あけましておめでとうございます。皆様の上に、今年も神様のいつくしみと恵が豊かにありますように、お祈り申し上げます。

 カトリック教会の新年は、マリア様とともに平和を祈りつつ始まります。もちろん、クリスマスから始まった降誕祭も続いていますが、日本人としては、やはり新年を寿ぐことはとても大切なことだと思います。新しい年は、ただ十二月三十一日の夜から一月一日の朝になっただけなのに、まったく違った空気になっています。日本人にとって新年は、やはり特別でしょう。多くの人が初詣をされますし、様々な「初」によって新しい年を迎えられたことを喜び祝います。

 それは、自分ひとりの力で生きているのではないことを再確認し、この幸せな時をすべての人が過ごせるようにと祈るときです。「平和の元后マリア」「神の母マリア」もまた、わたしたちのために祈ってくださっているのです。

 イエスの誕生を知った羊飼いたちは、自分たちの体験したことを人々に告げ知らせます。それは、不思議な出来事でしたから、語る方も聞く方も、力が入ったことでしょう。そして、その出来事は長く語り継がれたのではないでしょうか。多くの人が、「こんなことがあった」と言いながら、次から次へと伝えていったこと、それがイエスの誕生の神秘として、多くの人の記憶に残ったのではないでしょうか。

わたしたちも、幸せの体験、喜びの体験を今年も多くの人に告げ知らせることが出来るよう、心を研ぎ澄まし、耳をそばだて、神様のみことばを全身で受け止めることが出来ますように。現代社会の本当の苦しみを知り、多くの人とともに神の恵みを信じて歩いてゆくことが出来るよう、マリア様の取次ぎを心から願い、力を込めて、前進してゆきたいと思います。


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1月5日 主の公現
マタイ2章1~12節


彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。(9~10節)
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。(九~十節)

三人の王様(占星術の学者たち)は、エルサレムで見失った星を再び見つけ、無事にイエスのもとにたどり着きます。「出かけると」「星が先立って」とあるように、出発しないと星は見えないのです。

これは結構むつかしいことです。何も見えない状態で、出発しなければならないからです。きちんと旅の計画をし、目的地もしっかりしている旅行なら、不安も少ないでしょう。もちろん初めてゆく土地での困ったことや、事件などもあるかもしれませんが、おおかたは予定通りに進み、目的も果たせれば一安心、あとは家に帰ってのんびりしましょう、ということになるかもしれません。

 博士たちはどこにいるかもわからない「ユダヤの王様」「救い主」を探しつつ、「星に導かれて」旅をつづけたのです。何を、どこに、どうやって探し続けたのでしょうか。三人(といわれていますが、実のところ人数は書いていません)は最初から一緒に出掛けたのでしょうか、それとも別々に旅をつづけていたのでしょうか。いろいろなことを考えると、彼らの旅の大変さが身に沁みます。あてのない旅をするなど、若いころならいざ知らず、生活も確立し、いろいろなしがらみをまとったわたしにとっては、本当にむつかしいことではないかと思いました。

  けれど、この旅をするのがキリスト者としての生き方なのだと思います。教会も「旅する教会」といわれています。キリスト者も「旅を続ける者」なのです。

どこに向かって旅をするのでしょうか。もちろんイエス・キリストに向かって歩み続けるのです。それは、時にははっきりと光輝く星としてイエスが見えるときもあるかもしれませんが、ほとんどは、闇の中を歩み続ける旅なのではないでしょうか。闇の中を歩み続けることは、本当にむつかしいことです。けれど、「出かけ」ないと星は見えないのです。準備に関してはいろいろありますが、まあ、置いておきましょう。とりあえず、心を燃え立たせ、出発してみようではありませんか。


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1月12日 主の洗礼
マタイ3章13~17節


イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。(16節)

 イエスが洗礼を受けられたのは、人間が洗礼を受けるのとは違う理由があるのでしょう。 「イエスには故郷ナザレを捨てて神の福音の使者となる生の転換期があります。そしてその契機となったのはヨハネの洗礼運動でした。……すべての福音書は福音の初めを、イエスの洗礼に置いています。……イエスはヨハネとの接触を通して、神からご自分に課せられた一回限りの使命を自覚するに至ったのではないでしょうか」(『カトリックの教え』七十~七十一ページ)

  教会の教えの中には、イエスの洗礼が深い自覚と御父との一致を示すものだったと記されています。わたしたちも洗礼を受けたときのこと、あるいは、日曜日の信仰宣言の時、そして、求道者が復活徹夜祭に洗礼を受けるときのことを思い出し、洗礼を受けていることに対して、深い自覚を持ちたいものです。

  教会から離れてしまう人も多いのですが、それは、洗礼の時の深い体験があっても、日々の生活の中で次第に自覚が薄れていくためではないかとも思います。信仰を同じくする親しい友、祈りを一緒にすることのできる家族や友人、そして、信仰体験を分かち合うことのできる共同体などが信仰を深めていくためにはどうしても必要です。

 教会に来ない人を批判したり、あきらめたりする前に、わたしたち一人一人が、その人の親しい友となるために、何ができるか考えてみたいと思います。少なくとも、多くの人のために祈り続けること、神様のことを忘れず、いつも神様が一人一人を見守って愛してくださることを伝えることが出来たらと思います。


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1月19日 年間第2主日 
ヨハネ1章29~34節  


ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(29節)

 洗礼者ヨハネの宣言は、イエスが「救い主」であることの証です。それは、喜びであり、期待であり、そして、自分の役割を終えるときだという自覚でもあったでしょう。

  教会はなぜ今日、年間第二主日(緑の祭服になって初めての主日)にこの部分を読むのでしょうか。

 洗礼者ヨハネのことばは、イエスが洗礼を受けた後、イエスを見たときに証言となっています。それは、その時そばにいた弟子たちに聞かせるものだったでしょう。それに加えて、現代に生きるわたしたちも、ヨハネのことばを聞くのです。

 イエスを見かけたとき、また、イエスと出会うとき、それは人間にとってかけがえのない、二度とない「時」なのだと思います。わたしたちは、そのような時を本当に味わうことが出来るでしょうか。

  わたしたちは昨年十一月、教皇フランシスコを日本にお迎えすることが出来ました。もうあれから二ヵ月がたっているのですが、その印象はいかがでしょうか。お会いされた方も多いでしょう。テレビで見ただけという方も、ミサにあずかって遠くでお会いした方、もしかしたら、近くで握手をしてもらった方もおられるかもしれません。

わたしはテレビの中で、また、インターネット放送のミサの中継で教皇様のお姿を見ることが出来ました。その時の印象は、イエス様が現代の日本にいらっしゃったら、こうなのではないか、と思えるものでした。教皇様の一人一人に対するまなざしと、愛情深いことばは本当に人々の胸を温かくし、神様の愛を明かししておられるものでした。

ご高齢にもかかわらず、キリスト者の少ない日本に来ていただけたことを感謝するとともに、わたしたちがイエスに出会ったらこうなれるように、証をしてくださったことに、深く思いを馳せます。

本当の証ができるよう、教皇様の模範に倣えるよう、そして洗礼者ヨハネの証言のように、わたしたち一人一人が、イエスを伝えてゆくことが出来ますように。


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1月26日 年間第3主日  
マタイ4章12~23節  


暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。(16節)

降誕節の入祭の歌に「闇に住む民は光を見た」があります。ご降誕の喜びを歌う、とても好きな聖歌です。特に最後の節、「神に栄光、人に平和」という昇り上がって降りてゆくフレーズは本当に素晴らしい祈りだと思います。わたしたちも聖歌を心を込めて歌うことによって、祈りを深めてゆくことが出来ます。年間主日の始まりに先週はイエスの洗礼の後の場面があり、そして今週はイエスが福音を告げ知らせ始める場面です。

 イエスは「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされ」ました。教えること、福音を伝えること、そして、病気をいやされることがイエスの活動の三つの柱でした。

  この三つの行動は、わたしたちキリスト者にもゆだねられているものです。人々と出会い、痛みをいやし、福音の喜びを告げ知らせることは、キリスト者にとって大切な義務です。パウロの言うように、「福音を告げ知らせること」はゆだねられたものです。わたしたち一人一人は、その自覚をもって、福音を生きているでしょうか。それとも、義務を果たしているからこれで十分だ、と思ってはいないでしょうか。

  イエスは、宣教活動の初めから、精力的に行動され、そして自分の使命を共にする弟子たちをお招きになられています。この行動力を見習うのは、並大抵ではないかもしれません。けれど、心の中で、「神に栄光、人に平和」と歌いながら、イエスの後姿を追っていくことは誰にでもできることでしょう。心の中の神への賛美の歌を消すことがないよう、喜びの福音を閉ざすことのないようにしたいと思います。

 


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