主日の典礼 2019年12月 A年

12月1日 待降節第1主日 
マタイ24章37~44節 

 「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(四十四節)10節

まだ来ない、いや、来る、もう来ないかも、等々、わたしたちが待つものは、何でしょうか。期待が多きければ大きいほど、それを待ち望みますし、「来る」「来ない」、「かなう」「かなわない」で心と感情は揺さぶられるかもしれません。わたしたちが本当に待ち望むもの、それが何んであれ、来てほしいと思うなら真剣に願うでしょうし、もし来てほしくなければ、それが来そうで来ない時には、ドキドキして、恐ろしくなるかもしれません。

さて、イエスが言われる「人の子が来る(来臨)」とは一体何なのでしょうか。イエスは歴史のある時期に(約二千年前)、イスラエルの世界に「来られ」ました。そのイエスが、もう一度「来られる」ことを、初代教会の人々は「主の再臨」(ギリシア語でパルウシア)と呼び、待望していました。彼らは、もうすぐにイエスが来られると期待しつつ待っていたのです。イエスが栄光に包まれてこの世界に「再臨」し、この不自由な体と世界から解放し、救われると信じていたからです。

わたしたちは、彼らほどの切羽詰まった思いもなく、また、自分の生きている間に「再臨」などありえないと思ってはいませんか。初代教会の熱い想いを、どこか遠いものに感じて毎日を普通に生きているのではないでしょうか。イエスの再臨は、本当に差し迫ったものなのでしょうか。少なくともわたし自身は、「そんなのまだ先だよ、大丈夫」(何が大丈夫なのでしょうか)と思っているのです。何の根拠もないのに。

 来られる方は、実は、戸口に立っているはず、なのですが、わたしたちはちっともそれに気づいていません。実は、待っているのは、「来られる方」ではないでしょうか。イエスこそ、わたしたちが振り返って自分のほうを見つめてくれるのを「待って」おられるのです。  わたしたちは主の存在、たたずんで、息をひそめて待っておられる主の存在にどれくらい気が付いているのでしょうか。

今年も待降節が始まりました。主の再臨を待ち続けている教会は、希望し続ける教会です。わたしたちも主が来られ、そして、すべてを新しくしてくださることを希望しつつ、それにふさわしい姿でいることが出来ますよう、願っています。


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12月8日 待降節第2主日
マタイ3章1~12節


「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。」(一~二節)

「そのころ」とありますが、いつ頃のことだったでしょうか。時代としては紀元後十ないし二十五年のころといわれていますが、洗礼者ヨハネが活動を始めたころです。歴史的には、ユダヤの地はローマの植民地(属国)になっており、ポンシオ・ピラトが総督として統治していました。皆さんももうご存じのように、当時の民衆の暮らしは厳しく、一部の特権階級がローマと結びついて贅沢に暮らし、宗教的なよりどころである神殿も、祭司や律法学者によって独占され、貧しい人々は顧みられない時代だったのです。

だから、「そのころ」ヨハネがきびしい言葉をもって人々に臨んだのが、強い印象を持って語られるのです。苦しい生活の中でも、多くの人は神の介入を待ち望んでいたでしょう。けれ打毎日の暮らしは厳しく、貧しく、病気でもしようものなら確実に飢える生活になるでしょう。そのうえ、貧しいこと、病気になることは神の罰だと考えられていましたから、人々の心は絶望感にとらえられていたのではなかったでしょうか。

ヨハネはそんな人々に「天の国は近づいた」と宣言したのです。

 彼にはどんな確信があったのでしょうか。どちらを見ても閉塞的な現状、どんなことをしても世界は変わらず、人間も、そして自分自身も変わらないし、変われない。貧しい人々は飢え、借金まみれで仕事もなく、病気や奴隷状態に置かれ、収奪と抑圧は日に日に強くなるばかり。そんな現実に絶望していても、そこを貫く神への絶対的な信頼。洗礼者ヨハネの「自信」は、自分や他の被造物により頼むことではなく、神に完全により頼むことからきています。

 だからこそ「悔い改めなさい」と宣べ伝えるのです。わたしたちは、教会の中ですら、「悔い改めよう」「回心しよう」というのをはばかってはいませんか。自分の至らなさを重々承知しているから、こんな言葉は言えないと、しり込みしています。ヨハネはそんな弱さと恐れを打ち砕くように「悔い改めにふさわしい実を結べ」と厳しく迫ります。 

 彼の情熱は、神からくるもの、それはやがて来られる救い主、イエスのために何が何でも多くの人に立ち返りの道を示したかったからでしょう。そのためには、自分の痛みと苦しさを恐れてはいられませんでした。だからこそ、彼は殉教の日まで、イエスが歩む道を準備し続けたのです。


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12月15日 待降節第3主日
マタイ11章2~11節


「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(四~六節)

 イエスがヨハネの弟子たちに向かって告げた言葉を、今日、第三主日に聴きます。

 これは、イエスがわたしたちに向かって、告げられた言葉だと思います。わたしたちが見聞きしていることの中に働かれる神の力を、わたしたちは本当に感じているのでしょうか。

 待降節という「神を待ち望む期間」に、わたしたちはもう一度改めて、何を見、何を聞き、何を希望し、何を待ち望んでいるかを確認する必要があるのです。わたしたちは、本当に神を信じ、歩んでいるのでしょうか。口では一応まともなことを言いながら、自分中心で、勝手な生き方をしているのではないでしょうか。そんなわたしたちの前にも、神の恵みは確実に働いています。それに気が付かないのは、わたしの鈍さ、わたしの自分中心な考え方のせいです。

わたしたちはもっと差し迫っていいはずです。教皇様が「野戦病院のような教会」を望まれているのは、わたしたちが最前線に立って、傷つきながらもイエスの福音をのべ伝える者であってこそなのです。おそらく、野戦病院では、傷ついている人ばかりで、丈夫な人、健康な人がいたとしたら、恥ずかしく思うでしょう。そのような切羽詰まった日常こそ、わたしたちが待降節、そして、クリスマスに感じなければならない姿勢なのではないでしょうか。


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12月22日 待降節第4主日 
マタイ1章18~24節  


イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。(十八~十九節)

A年の主日は、マタイによる福音書が読まれ、待降節第四主日にようやく、マリアとその夫ヨセフの物語が始まります。わたしたちはこの物語の結末を知っていますので、ヨセフがどんなに悩んだかは二の次で、早くイエスが生まれないかな、などと考えてしまいがちです。

 ヨセフの悩みは世の中の男性の悩みだと思います。下世話な話して申し訳ないのですが、子供が生まれるとき母親である女性は完全に自分の子供であると確信しますが、男性は父親であることをどのように考え、把握してゆくのでしょうか。

現代のカトリック教会の信徒には、女性が比較的多いような気がします。信仰を伝えるのも女性が大切な役割を果たしていると思います。
けれど、イエスの生まれた当時のユダヤ社会では、男系優先の社会で、父親が誰か、ということがとても重要な問題でした。イエスがもしヨセフに離縁されたマリアの子供であったとしたら、父親のいない「非嫡出子」ということになり、一族の中で権利を持つことが出来ないことになります。ユダヤ社会の中で女性は、いわゆる公民(人権を認められた人格)ではなく、「女子供」としてまとめて扱われた存在でした。父親がいない子供も、いろいろな権利から疎外され、人格を認められないことになるのです。ですから、ヨセフの決断はとても重要なものでした。

 ヨセフが、それを悩みもなく決定したとは思えません。大切なことだったからこそ、悩んで、そして夢の中でお告げを受けて、イエスとその母を迎え入れたのです。人間としてとても重要なものをヨセフの中に見出すことが出来るでしょう。希望、苦しみ、悩み、愛情、ゆるし、そして前進。

 ヨセフの思いをわたしたちも大切にし、悩んでいるとき、苦しんでいるときに彼に助けを願いたいと思います。


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12月25日 主の降誕 夜半のミサ  
ルカ2章1~14節  


「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(十四節)

ミサの中で「天のいと高き所には、神に栄光。地には善意の人に平和あれ」と歌うところが、今日の福音のことばです。

 栄光の賛歌はこのイエスの誕生を告げ知らせた天使のことばで始まっています。本当に神の栄光をたたえ、その御業を賛美する声です。わたしたちもこの「グローリア」を心を込めて歌いたいと思います。

 「神に栄光」「地に平和」のことばは、わたしたちが心から祈り求めることでしょう。この世界に平和が与えられますように、それも、単に戦争がなくなるだけではなく、人が人として尊敬され、だれもが豊かで幸せな生活を送れるようになることが「地に平和」です。そして、そんな人類共同体が創造主である神を認め、そのみ旨に従う幸福を知ることが「神に栄光」なのではないでしょうか。

 わたしたちはクリスマスにイエスの誕生、神様の深い愛を知って、心から感謝をささげます。この感謝の心によって、すべての人とともに平和を祈るものとなることが出来ますように。

 そして、痛み苦しむ人々のために、心からその痛みを分かち合うことが出来るよう、お祈りいたしましょう。


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12月29日 聖家族
マタイ2章13~15節、⒚~23節  


ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(十四~十五節)

 イエスがエジプトに避難し、そして、ナザレの村に帰って生活する、というエピソードは、旧約のモーセを彷彿とさせる物語です。ここでは省かれていますが、御公現の祝日に読まれるこの前の部分では、救い主を探しに来た博士たちとヘロデ大王の対比によって、その状況が危険を伴う逃避行であったことがわかります。
両親と幼子は、取るものもとりあえず逃げ出し、九死に一生を得ました。彼らはエジプトで難民生活を送ったのです。
現代にも多くの家族が様々な理由で生まれた国、土地を離れることを強いられます。わたしたちは彼らについて、どんなことを知っているでしょうか。「なぜ国を離れなければならなかったのか」ということをよく知らずに、外国人に偏見や差別を持ったり、無関心になったりしてはいないでしょうか。人々の苦しみを知らずに、日本人のルールを押し付けていることはないでしょうか。

  「郷に入れば郷に従え」ということわざは、このグローバルな世界ではもはや通用しなくなります。というよりも、わたしたち自身が「郷」の垣根を越えていく必要があるのです。

 いつ、わたしたち自身が、さまよい、さすらう民となるのか、だれも知りません。しかし、そんなことは起こらないと、だれが断言できるでしょうか。

  国内でも災害が頻発し、国際的なつながりなしには、どんな国も立っていくことが出来ない現代、もっともっと人と人とのつながり、きずなを深め強くしてゆくことが求められています。だからこそ、自分の中の垣根を壊し、外に出かけ、外からの人々を受け入れ、わたしのうちにある固い枠を壊してゆくことが出来るように、心から聖家族に向かった祈りましょう。


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