主日の典礼

9月1日 年間第22主日 
ルカ14:1,7-14 

 「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」 (十三節)

わたしたちはどんな人と親しく付き合っているのでしょうか。またはどんな人を交わりの中から排除しているのでしょうか。傲慢、人を見下す思い、差別は、常に私たちの心に忍び込む危険を持っています。知らないうちに、心は人を区別することに慣れてしまいます。「あの人は、不潔だから」「この人はきちんとした家庭の人だから」「あの人は、おしゃべりで、うるさいから」「この人は、いつもわたしに反対するから」

このような理由付けのほかに、すぐに頭をもたげるのが、自分(または自分の属する共同体)に利益をもたらすかどうか、の点です。これによって人への応対が変わってしまうなら、それはなんと寂しいことでしょうか。

イエスはそんなわたしたちに冷水を浴びせるかのように、宴会には、貧しい人を呼びなさい、と言われました。

宴会を開く人ですから、招く方はお金持ちです。普通、お金持ちや豊かな人の友達は、やはり豊かな人が多いでしょう。だから「招き返される」ことになるのです。

反対に貧しい人は「お返し」ができません。わかりきったことですが、それを期待しないで人を招くことは、実はむつかしいことだと思います。

わたし自身、何か行うとき、その影響を(つまり、やることはわたしにとって「得」なのか、それとも「損」なのか)考えてしまいます。損だとわかっていても、やるときもありますが、ふつうはお得な方を選びます。つまり、野菜や他の物を買うときのように、吟味しつつ、自分のためにより良いものを選ぶのです。

宴会を開くとき、貧乏な人、いわゆる「障がい」を持った人、嫌われている人を選ぶでしょうか。そんなことをすれば、もめごとになるし、ややこしいし、第一そんな人に声をかけるほど親しくない、とか思ってはいないでしょうか。そうなのです。口で、祈りで、貧しい人や苦しんでいる人のことを祈っていても、思っていても、ほとんど彼らとかかわらないという現実の前に、わたしは恥ずかしく思います。様々な活動に参加するのではなくとも、社会の現実に、そして教皇様と教会が目を留める人々、親しく交わっている人々のことを排除することなく、声を掛けられるようにすることができますように。


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9月8日 年間第23主日
ルカ14:25-33


自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(二十七節)

「来なさい、重荷を負うもの」という高田三郎先生の聖歌があります。イエスの「来なさい」という呼びかけが、心にしみる聖歌です。重い荷物を持っているから、それを取って、手ぶらでいいよ、と言うのではなく、イエスは「わたしの軛(くびき)を負いなさい」と招かれます。

 楽をしてイエスの後についてゆくことはできません。イエスはそれなりの荷物をわたしたちに与え、そして一緒に歩いてくださいます。イエスはそれが「安らかになる」ことだと知っておられるのです。

わたしたちも、自分の重荷が辛いなあ、と感じてしまうとき、イエスのそばに行くことが肝心なのでしょう。一人でその重荷に苦しまなくても、イエスのそばに行って重荷を取ってもらい、イエスのことばの「軛」を進んで引き受けるとき、その「軛」は前よりもずっと持ち易くなっているのではないでしょうか。イエスのことばはそのようなことばです。本当のいのちのことばは、イエスの人生です。もちろん、イエスのように歩まなければならにとわかっていてもできないこともあります。そのような生き方を、選ぶことを拒否してしまうこともあるのです。それでも、イエスの後についてゆきたいと思ったことがあるならば、失敗してもついてゆくことをやめないことです。イエスも、御父も人間の常識では考えられないほど、はるかに気前良く、憐れみ深く、赦しを豊かに与えてくださるからです。この赦しの恵みに信頼し続けることができますように。

 


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9月15日 年間第24主日 
ルカ15:1―32


ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。(二節)

ルカ福音書の十五章は「あわれみのたとえ話」が三つ続いています。「どこかに行ってしまった羊」「なくした銀貨」「放蕩息子」の三つですが、どれもとても意味深い物だと思います。「放蕩息子」のたとえは四旬節中にも読まれますが、この福音の中では「なくした」「いなくなった」と訳されるアッポリューミがキーワードだといわれます。放蕩息子が「死ぬ」と訳された言葉も同じです。

いなくなった、失くしたということは、本来あるべき場所ではないところに行ってしまったことです。父の家にいた弟息子も、本来ならば、苦しい思いをすることなく、父の家で暮らしていけたのですが、そこからそれて、どこか別の場所に行ってしまったのでした。最後に父が言う言葉もそれを表しています。「死んでいたのに生き返った、いなくなっていたのに見つかった」弟のことを心を込めて迎え、喜ぶ父親の姿が印象的です。

失くした羊が見つかっても、失くした銀貨が見つかっても、見つけた当人だけが喜ぶのではなく、周りの人に「一緒に喜んでください」と言うのです。これは、父親の姿と一緒です。

この「あわれみのたとえ話」で、改めて御父の「赦しといつくしみ」「神の正義」のことを考えました。「神はいつくしみ深く正しい方」というのは、「神はいつくしみ深く、実に実にいつくしみ深い方」である意味だ、と教えられたことがあります。先週も考えたように、どんな失敗や、取り返しのつかないことをしても、神のいつくしみと赦しを信じているなら、神様は赦してくださるのです。この放蕩息子はもしかしたらまた同じことを繰り返すかもしれませんが、御父は立ち返る人を、何度でも必ず赦してくださいます。

けれど、人間はそのような神の寛大さを信じ切れません。だから、何か支障のある人のことを「罪人」だと決めつけ、交わりの輪の中には入れたくないと思ってしまうのです。ファリサイ派の人々も、イエスは正しく立派な人なのに、なぜ罪人の仲間なのだ、と疑問に思いつぶやくのでしょう。わたしたちもすぐにつぶやいてしまいます。

「つぶやく・不平を言う」という言葉はイタリア語では「モルモラーレ」というのですが、本当に「つぶやいているなあ」という感じがします。ぶつぶつと口の中で、または他の人たちと「モルモラーレ」してしまうこと。これこそ、本当に神様を信じているといいながら、実は愛情を信じていない人の態度なのではないでしょうか。そんなことがありませんように。


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9月22日 年間第25主日 
ルカ16:1-13  


「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。……あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(十三節)

「二者択一」、一つを選べば、もう一つは選べないということですが、これを意識するのはどんな時でしょうか。

 人生には、「これは」と思うことが時々あるでしょう。「この道か、あの道か」「これを選べば、あちらは選べない」。結婚、就職、召命、重要な買い物などもそこに入るかもしれません。イエスは、「神様」と「富」の二つを示されています。

このように言われるということは、神様を選んだら、富は付いてこない、ということです。キリスト者はお金持ちにはなれない、ということでしょうか。  本当にイエスを信じ、その道を歩む人は、この世の富に仕えることができないのです。つまり、この世の富を「神様」と同じところに置くことはできないのです。同じところに二つ置くと、どちらかは落っこちてしまいます。「いや、わたしは大丈夫」ということはできません。どちらか一方ということは人間の能力がそうであるというよりも、神様を選ぶ人の中には、他の物を入れる場所がないということでしょう。

実際、人間はいろいろなものを選びながら歩んでゆきます。それはそれぞれの場所があります。けれど、「神様を選ぶ」ことは、わたしたちにとって毎日突き付けられている選択です。どちらを選ぶかは、わたしたちに任されています。決してそれを強制されないのは、神様がわたしたちを大切に思ってくださっているからです。本当に大切に思っていてくださるからこそ、本当の道もきちんと示してくださっているのです。それを見誤ってしまうこともあるのですが、心の耳を澄まし、聖霊の助けを願いつつ、本当の神様の道を歩むことができるよう、祈っていきたいと思います。


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9月29日 年間第26主日  
ルカ16:19-31  


『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 (二十四節)

金持ちとラザロの話です。どちらも死ぬのですが、アブラハムのセリフのように、生きている間に、良いものを受けた者と悪いものを受けた者の死後の差は、このようにはっきりしています。

ラザロは、特に良いことをしたわけでもなければ、信心深かったとか書かれているわけでもありません。生きている間の苦しみが述べられています。

ただ特に注目したいのは金持ちには名前もないのに、貧乏な人には名前があります。わたしは、それが神様からの目に映った私たちの姿のような気がします。  いわゆるお金持ちは、きっと自分で自分に満足していたのでしょう。あまり信心深くはないにしても、別に神様のことを忘れていたわけではなかったと思います。そうです、忘れてはいなかったけれど、それだけだったのです。だから彼には名前がないのでしょう。これは、日ごろのわたしたちかもしれません。神様のことを忘れているわけではないけれど、切羽詰まってもいないし、困ってもいない、なんとか自分でやっていますから…。
けれど、神様に名前を憶えられていたラザロは、きっと神様だけが知り合いだったのではないでしょうか。他の人は、彼の名前も知らなかったのかもしれません。神様だけに名前を憶えていてもらった人、神様だけが頼りだった人、そのような人だけが、神様のそばに行くことができるのです。自己完結してしまった人間には、神様は必要ないのです。だから、神様もその人を憶えることができなかったのでしょうか。


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